訴 状 2025年9月19日

訴 状
2025年9月19日
東京地方裁判所民事部 御中

      当事者の表示・・・別紙当事者目録記載のとおり

      原告ら訴訟代理人弁護士 大   口   昭   彦 ㈹
      同           内   田   雅   敏 ㈹
      同           一   瀬   敬 一 郎 ㈹
      同           長 谷 川   直   彦 ㈹
      同           浅   野   史   生
      同           河   村   健   夫 ㈹
      同           井   堀       哲 ㈹
      同           岩   田       整 ㈹
      同           酒   田   芳   人 ㈹

第二次世界大戦戦没者合祀絶止等請求事件
訴訟物の価額 4320万円
貼用印紙額 15万2000円

請 求 の 趣 旨

1 被告靖國神社は、原告ら各自に対し、別紙戦没犠牲者及び原告目録の祭神名欄記載の被合祀者に関する記載を霊璽簿、祭神簿及び祭神名票から削除せよ
2 被告靖國神社は、原告ら各自に対し、別紙謝罪文1を交付せよ
3 被告国は、原告ら各自に対し、靖國神社に対する祭神名票送付等によりなされた別紙戦没犠牲者及び原告目録の祭神名欄記載の被合祀者に係る犠牲に関する事実情報の提供告知を撤回せよ
4 被告国は、原告ら各自に対し、別紙謝罪文2を交付せよ
5 被告らは、原告朴善燁、原告朴孝善、原告朴善才ら各自に対し、連帯して金40万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みまで年3分の割合による金員を支払え
6 被告らは、原告吉亨旻、原告呉辰珣、原告李星雨ら各自に対し、連帯して金120万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みまで年3分の割合による金員を支払え
との判決並びに第5項及び第6項につき仮執行宣言を求める。

請 求 の 原 因

目次(省略)

第1 当事者

1 原告等

 原告らは、いずれも大韓民国(以下「韓国」という)に国籍を有する者である。別紙戦没犠牲者及び原告目録の「犠牲者姓名」欄記載の戦没犠牲者らは、いずれも原告らの祖父である(以下「本件各戦没者」あるいは「本件各被合祀者」という)。
 本件各被合祀者は、いずれも日本軍の軍人あるいは軍属としてアジア・太平洋戦争に動員され、戦没し、被告靖國神社(以下「靖國神社」という)に「英霊」として合祀されている。

2 靖國神社

 靖國神社は、宗教法人法による宗教法人であって、その社務所を肩書地に置き、その目的を「明治天皇の宣らせ給うた『安國』の聖旨に基づき、國事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者(…)を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふこと」を目的としている神社である(宗教法人靖國神社規則第3条)。

3 被告国

 被告国(以下「大日本帝国」「日帝」「日本国」「日本国政府」「日本政府」などという)は、その前身である大日本帝国のなした行為による法的責任の全てを承継している。日本国は、国家賠償法により、国家公務員がなした国家の業務行為に関して発生する法的責任の一切を負っている。

第2 本件訴訟の事案の概要

 本件訴訟は、①靖國神社が、アジア・太平洋戦争の戦没者情報が記載された祭神名標を日本国から提供を受ける等をし、本件各戦没者につき、別紙戦没犠牲者及び原告目録「祭神名」欄記載の祭神名を霊璽簿、祭神簿に記載する等をし、祭神として合祀し(以下「本件各合祀行為」という)、現在も合祀を継続しているところ(以下「本件各合祀継続行為」という)、本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為は、本件被合祀者の遺族である原告らの人格権を侵害するが故に、原告らが、靖國神社に対して、靖国神社が保管管理する霊璽簿、祭神簿、祭神名票から本件被合祀者の祭神名の抹消及び不法行為に基づく損害賠償等を請求するとともに、②本件各合祀行為が日本国による靖國神社への本件戦没者に係る情報提供行為(以下「本件各情報提供行為」という)を必須の要素としてなされ、現在も本件各戦没者に係る情報を靖國神社に保有せしめることにより(以下「本件各情報提供継続行為」という)、本件各合祀継続行為がなされていることは、原告らの人格権を侵害するが故に、日本国に対して、本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為の撤回及び国家賠償法に基づく損害賠償等を請求する事案である。
 なお、靖国神社による本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為と日本国による本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は共同不法行為の関係にある。

第3 前提事実

1 日帝の朝鮮半島侵略支配の歴史

(1) 韓国強制併合
 大日本帝国は、その成立当時から、朝鮮国への砲艦外交を国家的目標としてきたが、1875年の江華島事件以来、朝鮮への内政干渉を続け、日清・日露の両戦争を経て朝鮮における支配的位置を確立し、1905年、日本軍が朝鮮王宮を包囲する中で、伊藤博文が大韓帝国政府の大臣等に強要して、「乙巳保護条約」に調印させた。
 この条約により大韓帝国は外交権を奪われ、外交を監督するとの名目で日本から送り込まれた朝鮮総監による徹底した内政干渉によって、事実上日本の属国とされていった。
 そして、ついに1910年8月22日、第3代朝鮮統監寺内正毅は、一個連隊の日本兵が包囲する漢城において、当時の大韓帝国政府に「大韓帝国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲渡スル」との韓国併合条約を押しつけ、朝鮮を完全に日本の植民地にした。
  こうして朝鮮に住む全ての人々は大日本帝国「臣民」とされたのであった。

(2) 植民地支配
 大日本帝国は、天皇が直接任命する朝鮮総督のもとに総督府を設置し、軍隊と警察が一元化された憲兵警察という警察組織を駆使して、「武断政治」と呼ばれる強権支配を行って朝鮮を支配し、朝鮮語の言論や教育を弾圧していった。そして、その一方で、「土地調査事業」「林野調査事業」という名の土地取上げ策を断行し、朝鮮農民の土地を収奪した。
 このような侵略支配に対して、朝鮮人民による反対の声は日増しに高まっていった。1919年3月1日に、33人の民族代表が「われらはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自由民であることを宣言する」という言葉で始まる独立宣言文に署名をし、全国にこれを発表した。この宣言により、抑圧された朝鮮民族の怒りに火がつけられた。朝鮮全土で200万人を越える人々が、「独立万歳」を叫ぶ3・1独立運動に起ち上がったのであった。しかし、朝鮮総督府は、これに参加した非武装の朝鮮人に徹底した武力弾圧を加え、約7500人もの朝鮮人が日本軍警によって殺害された。
 3・1独立運動の高揚に懲りた朝鮮総督府の斉藤実総督は「文化政治」を標榜して、朝鮮語の新聞発行を一部承認する等の懐柔策を採った。また、「一視同仁」「日鮮融和」をスローガンとし、さらに朝鮮人を日本人に同化させる政策を採った。しかし、それはあくまで朝鮮の民衆を懐柔するための表面的な政策であり、1920年に始まった「産米増殖計画」によって15年間の米増産率2割に対して日本への供出を4倍にする飢餓輸出政策を強要するなど、植民地収奪の実態に変わるところはなかった。

(3) 侵略戦争への動員
  ア 兵站基地化政策
 大日本帝国は、1931年に満州事変、1937年に日中戦争を惹起し、中国への本格的な侵略を始めた。大日本帝国は、朝鮮を中国侵略の「兵站基地」と位置付け、先に述べたとおり、食糧を収奪するとともに、重化学工業を中心として工業資源の略奪を強化していった。そのために、ダムや水力発電所の建設を進めた。
 また、朝鮮人を戦争遂行のための人的資源「安い労働力」として利用した。もちろん、開発によって利益を得たのは、日本の大資本であった。

  イ 皇民化政策
 朝鮮人を戦争遂行の人的資源とするには、朝鮮人からその民族性を奪い、大日本帝国に隷属させ、天皇に忠義を尽くさせる必要がある。このため、大日本帝国はいわゆる「皇民化政策」を推進した。
  (ア) 日本語使用の強制、朝鮮語使用の禁止
 例えば、学校では、朝鮮語の使用が禁じられ、日本語の使用が強制された。日本と同じ教科書を使うようになり、朝鮮語は正課から消えたのである。生徒同士が監視させられ、朝鮮語を使った者は罰せられることさえ行われた。
  (イ) 「皇国臣民の誓詞」の暗唱
 また、天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓詞」をことある毎に唱えさせ、学校の教室からは、次のような子供たちの声が聞こえた。
      一 私共ハ大日本帝国臣民デアリマス
      二 私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲツクシマス
      三 私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民トナリマス
  (ウ) 創氏改名
   さらに、「創氏改名」を実施して姓名を日本式の氏名に改めさせた。
 朝鮮半島では、姓は個々の家を表すのではなく、血縁共同体を表わしていることから、姓は、自分がどの集団に属しているかを示す大切なものである。男系が中心で、妻は他の血族から来た者であるから、同じ姓にはならなかった。建前上、日本式の氏にするというのは任意であったが、実際は強制であった。従わなければ、役所で生活に必要な手続が何も取られないばかりか、配給も貰えず、学校への登校もさせないとまでいわれた。朝鮮人にとっては、姓とは命をかけてでも守るべきものであったことから、名門(両班と呼ばれる旧貴族階級)の子孫の中には、創氏改名は先祖に申訳が立たないと、自決するものまで出た。また、それでもあくまで、自発的創氏改名を拒んだ者に対しては、法的に韓国の姓名をそのまま日本式の氏名とする一方的措置もとられた。
 本件被合祀者は、創氏改名政策に基づき強制された日本式氏名により靖國神社に合祀されている。
  (エ) 神社への強制参拝
 「勤労奉仕」によって建設された神社への強制参拝も盛んに行われた。大日本帝国の植民地行政、特に皇民化政策を推進する上でもっとも神社行政が機能を発揮し、整備されたのが朝鮮であった。
 朝鮮総督府は、朝鮮における侵略神社の目的を次のように述べている(朝鮮総督府刊1938年『朝鮮施政年報』207頁、以下、片仮名は平仮名に、旧字体は新字体に改め、適宜句読点を付した)。「神社は国家の宗祀にして、神社の本義は国家の宗祀たるの点に存す。乃ち敬神崇祖は尊皇の大義と共に我建国の根本にして、我国体の精華、国民道徳の根底を成し、淵源は遠く皇天二祖の神勅に発す。而して、斯る大精神の上に我国家の基礎は確立せるものにして、之我国が神祗を尊崇し祭祀を絶たざる所以なりとす。而して、此事たる我国が万世一系の天皇を奉戴するの事実と表裏一体を成すものにして、斯の如き我国体の本質として我国家の内面的欲求に基き国家の公の政務として神祗を祭祀するものにして、我神祗の祭祀は、我国が天壌無窮の皇室を奉戴すると同様、世界に比類なき独特の意義を有すものとす」。
   このよう朝鮮半島における神社行政は皇民化政策の中心軸であった。
  (オ) 興国奉公日(愛国日)
 1938年には、毎月1日の「愛国日」(39年8月「興国奉公日」と改称)が制定され、愛国班単位による、神社参拝・清掃・「日の丸」掲揚・「皇国臣民の誓詞」斉唱・勤労奉仕などへの強制動員が行われた。まさに神社を中心とした「皇国臣民化」が強化されたのである。
  (カ) 奉安殿への敬礼
 朝鮮各地の学校には「御真影」(天皇の写真)を納めた奉安殿が設置され、児童・生徒は、奉安殿を通る際には必ず奉安殿に向かって最敬礼をすることが義務付けられた。これにより天皇の神格化が図られたのであった。

  ウ 軍要員としての動員
  (ア) 日本軍「慰安婦」
 1930年代末期から日本軍は朝鮮人女性を日本軍「慰安婦」として強制連行し始めた。強制や甘言によって、主に10代の女性を連れ去り、日本軍兵士の性欲のはけ口としてその人格を蹂躙した。これらの女性の連行や慰安所の管理には日本軍が直接関与していた。
  (イ) 軍属
 国民徴用令による軍属としての朝鮮人動員は、1939年に開始されていたが、対米戦争開始以来、その数が急激に増大した。厚生省発表によると、1945年までに15万4907人の朝鮮人軍属が動員され、日本本土や占領下の南洋諸島で、軍事土木工事・炊事係・捕虜監視要員や運輸要員などとして軍務に従事させられた。
  (ウ) 志願兵制度
 戦争の際限のない拡大の中で兵力不足に陥った大日本帝国は、朝鮮人青年の軍人としての動員に踏み切った。1938年2月、陸軍特別志願兵令(勅令第95号)を公布、同年3月に勅令156号で、6カ月期間の志願兵訓練所官制を制定し、羅南・咸興・平壌・大邸などに陸軍兵志願者訓練所を設置、同年4月から志願兵制度を実施した。また、アジア・太平洋戦争が始まり、海軍の兵力が不足すると、1943年7月、海軍特別志願兵令(勅令607号)を公布、鎭海に海軍兵志願者訓練所を設立し、同年10月1日から朝鮮人青年を海兵として養成し始めた。さらに、同年には、学徒志願兵として、専門学校・大学の朝鮮人学生が戦場に動員された。1938年から1943年の間に、これらの志願兵として動員された朝鮮人青年は2万3681人である。一方、これに志願した者の数は80万5513名にのぼるとされ、朝鮮総督府等はこれを朝鮮人青年の「愛国的熱誠」によるものと喧伝した。
 しかし、現実には「志願」とは名ばかりで、面(日本でいう「村」にほぼ該当する)ごとに人数を割当て、地方の官吏や警察による強制動員が行われた。日本本土で学ぶ朝鮮人学生に対しては、志願しない者は炭坑等へ徴用するとの恫喝まで行って、強制的に志願させた。
  (エ) 徴兵制度
 大日本帝国は、対米戦争が始まり、より多くの兵力が必要になると、朝鮮人青年の戦争への動員をより義務的なものにするため、1942年5月、1944年度からの徴兵制導入を閣議決定し、「徴兵制施行準備委員会」を設立して準備に取りかかった。そして、中学以上に現役将校を配属し、国民学校卒業生は青年訓練所、国民学校未修了者は青年特別錬成所に義務的に入所させ、軍事訓練や皇民化教育を行い、同年10月には徴兵適齢届を行わせた。
 こうした準備を経て、1944年4月、ついに朝鮮に徴兵令が実施され、1945年までに20万9279人の朝鮮人青年が戦場に狩り出された。

2 本件各被合祀者の戦没

 大日本帝国による朝鮮半島侵略支配の歴史は、帝国主義侵略戦争遂行のために人的・物的資源を強奪するばかりか、朝鮮人としての民族的人格性を奪い、皇国臣民たることを強制するものであった。まさに、朝鮮半島を根こそぎ奪い尽くしたのである。
 そして、このような大日本帝国による朝鮮半島侵略支配下にあって、本件各被合祀者も軍人・軍属として侵略戦争に動員され、別紙戦没犠牲者及び原告目録記載の死亡日欄記載の日に戦没した。

3 靖國神社について

(1) 東京招魂社と靖國神社
 靖國神社の前身は、1869年に明治新政府の太政官布告により創立された東京招魂社に遡る。東京招魂社創建に当たっては、その創建が「天皇の大御詔」に基づいていることが強調され、幕末維新期における官軍側(新政府軍側)犠牲者を祀ることを目的とされていた。
 東京招魂社は、西南戦争の後、1879年に靖國神社と改称し、官祭招魂社の系列では唯一、別格官幣社(臣下を祭神に祀った官幣社である)の社格が与えられた。

(2) 戦前における靖國神社の位置付け
  ア 国家神道の中心的神社
 靖國神社は、国家神道の本宗である伊勢神宮とともに、国家神道を支える中心的な神社として位置づけられるものであった。万世一系の天皇が統治権を総攬する国体の護持を至上の価値観とする国家神道イデオロギーは、全国民を天皇制のもとにひたすら滅私奉公する臣民意識へと強く羈束していっていたところ、靖國神社の存在及び国家による合祀は、「臣民」に対して、「醜の御盾」として天皇のために命をも喜んで投げ出すべきであり、また「皇軍」兵士としての戦没は名誉であって、喜びとすべきであるとの観念を扶植し、昂揚させてゆく軍事施設として機能したのであった。
 イ 靖國神社と軍
 靖國神社は当初、幕末維新期の政争・内戦における官軍側犠牲者を祭神としていたが、明治政府が開始したアジア侵略(1875年江華島事件)における戦没者(1人の水夫)の合祀を行い、大日本帝国が行う対外戦争における戦没者を「英霊」として顕彰する体制を構築した。そして、この体制は、その後に大日本帝国が連続的に行った大規模な本格的対外戦争である日清・日露戦争における10万人を越える大量の戦没者の合祀によって完成し、以降、大日本帝国が行う対外的軍事行動への「臣民」の兵役動員において、不可欠の軍事機関として発展し機能してゆくことになったのである。
 ここに至って、靖國神社は、近代天皇制国家の対外的戦勝や国家的発展を約束し守護する軍神の神社となった。そして、対外戦争の戦没者の「殉国」を讃える施設としては慰霊塔や忠魂碑など多様なものが建設されるようになるが、靖國神社がそれらの頂点に立つという位置づけがなされた。
 靖國神社の前身である東京招魂社は、軍務官の主導によって設置され、軍務官の管理にあったが、やがては兵部省の管轄下になり、さらに陸軍省・海軍省の管轄となる。これが別格官幣社靖國神社に変わったときには、陸軍省・海軍省・内務省の共同管轄となるが、1887年には再び内務省の管轄を離れ、陸軍省を中心とする軍の管理が持続した。こうした軍の管理する神社は、靖國神社以外にはなかった。また、兵部省(やがて陸軍省となる)の係官である御用係が社司などを指揮監督していた。靖國神社になってから宮司が置かれ、内務省が任免をしていたが、1887年からは陸海軍省が任免するようになる。
 そして、靖國神社となったときから、陸海軍人が陸海軍を代表して、例大祭などの祭式の準備などを取り仕切っており、靖國神社の神職にはその権限がなかった。軍隊参拝は東京招魂社の創建時から行われており、例大祭・臨時大祭の度に実施されていた。さらに、警護も、当初から主として東京憲兵隊が行っていた。これ以外に臨時大祭や例大祭には、憲兵隊以外に警護のための兵隊の派遣があった。例祭日に関しても、当初は鳥羽伏見の闘いから箱館戦争に至る戊辰戦争の4つの戦勝記念日が選ばれ、それに西南戦争の戦勝記念日が加わっていた。この例大祭が変更になるのが日露戦争の後であり、陸軍・海軍それぞれの凱旋記念式典の挙行された日が、靖國神社の例祭日となる。なお、戦前の靖國神社では、例大祭などの祭典に正式に参列できる者は軍や国家の代表者だけであって、庶民・遺族は参列できなかった。
 1930年代以降には、軍人だけでなく、銃後「臣民」や植民地「被支配者」までを大量に動員する総力戦体制が構築され、靖國神社の存在が民衆全体へ浸透していくのが日中全面戦争下のことであった。国民精神総動員運動の一環として、日中戦争の「護国の英霊合祀」を行う靖國神社の臨時大祭に際し、「天皇陛下御親拝の時刻を期し」て「全国民黙祷の時間設定」を行うようになったのも1938年4月からのことである。そして、同年秋の臨時大祭からは、同じ日に各地域での「慰霊祭」の実行も求められることになる。出征兵士が「靖國神社で逢おう」と言ったということが盛んに喧伝されるのも、この日中全面戦争期に始まる。また、植民地での神社参拝の強制もこの日中全面戦争下で本格化していった。
 こうした中で、靖國神社の祭神に祀られる戦没こそが日本人としての最高の道徳的行為であるという建前が、学校教育や軍隊はもとより、新聞・放送・小説・歌・映画・演劇などあらゆるメディアを通じて広く喧伝されるようになる。
 また、日中全面戦争期には戦没者の遺族への援護体制が充実してくるが、靖國神社への合祀や遺族の参拝も、その遺族援護の枠組みの中で処理されていくようになる。遺族に対する地方での「公葬」の慰霊祭への招待や、靖國神社参拝に際しての遺族の鉄道無賃または割引乗車や参拝補助費の給付などであった。

(3) 戦後日本国憲法下における靖國神社
 ア 1945年11月9日臨時招魂祭
    敗戦後、靖國神社を所管していた陸・海軍省、とりわけ陸軍省は、軍の解体が避けられなかったため、靖國神社の将来に危機感を抱き、1945年9月下旬ごろから「大合祀祭」の実施を模索していた。
 そこで陸軍省・海軍省の告示のもとに、同年11月19日、靖國神社で招魂式が行われ、降伏調印した同年9月2日以前の全戦没者を招魂し、氏名不詳のまま一括合祀した。ただ、氏名や戦没年月日が不詳のため、霊璽簿への記載はこのときには行われず、霊璽簿へ招魂した霊を神体(「鏡」「剣」)へ移す儀式である合祀祭は行われなかった。翌20日、元陸軍参謀総長梅津美治郎大将を祭典委員長として臨時招魂祭が挙行され、昭和天皇も参拝した。これが、国営の靖國神社としては最後の招魂祭となった。
 イ GHQ「神道指令」
 GHQは同年12月15日にいわゆる「神道指令」を発した。「神道指令」第1項は、神社神道に対する国家や官公吏などの保証・支援・保全・監督の禁止、公の財政的援助の停止、国家神道の普及に大きな力を発揮した内務省の外局神祇院の廃止、すべての公立の教育機関における神道教育の禁止、教科書からの神道的教義の削除、役人の資格での神社参拝の禁止など多岐にわたる措置を命じた。さらに第2項は、「本指令の目的は、宗教を国家より分離するにある」として、政教分離原則の徹底を求めた。
 「神道指令」によって、日本国は、関連のさまざまな法規を改廃し、国家と神道との特別な関係はことごとく絶たれていった。同年12月28日には、戦争遂行のために宗教の統制・動員装置として作られた宗教団体法が廃止され、新たに宗教法人令が公布されて、6ケ月以内に宗教団体が自主的に届け出ることにより宗教法人になる道が用意された。翌1946年2月2日、神祇院が廃止され、神社関係のすべての法令が改廃され、官国幣社などの社格制度も同日付で廃止された。
 別格官幣社だった靖國神社は、1945年12月1日の陸軍省・海軍省廃止後は第一復員省・第二復員省の管轄となっていたが、同じく、6ケ月以内に届け出がなければ解散したものとみなされることになった。
 ウ 「宗教法人靖國神社」の成立
 これら一連の措置により、制度としての国家神道は廃止され、靖國神社は存亡の危機に立たされることになったが、大日本帝国政府関係者・軍関係者・国家神道関係者等々の奔走によって、靖國神社は民間の一宗教法人として存続することとなった。
 靖國神社は、1951年4月に施行された宗教法人法によって、翌1952年8月1日付で宗教法人の設立公告をし、同年9月に東京都知事の認証を受けた。これに伴って「宗教法人『靖國神社』規則」と「靖國神社社憲」が制定され

(4) 靖國神社の戦前・戦後における一体性・連続性
 ア 靖國神社「規則」第3条及び「社憲」
 靖國神社の「規則」第3条は、その目的を「本法人は、明治天皇の宣らせ給ふた『安國』の聖旨に基づき、國事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する遺族その他の崇敬者(以下「崇敬者」といふ)を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする」と規定している。
 また、靖國神社の「社憲」の前文には「本神社は明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降國事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その『みたま』を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治二年六月二十九日創立せられた神社である」とある。
 すなわち、靖國神社の祭神は、戦前と同様に、天皇と日本国家に殉じた戦没者の霊であり、その実態は、陸・海軍省の管轄であった戦前の教義及び祭祀をそのままの形で継承しており、戦前の靖國神社と宗教法人としての靖國神社は一体性・連続性を有していたのであった。
 イ 戦前・戦後における一体性・連続性を示す具体例
 このような靖國神社の戦前・戦後における一体性・連続性を示す具体例をいくつか挙げる。
 (ア) 靖國神社の歴史認識
 靖國神社は、元首相・陸軍大臣・参謀総長東條英機ら所謂A級戦犯を合祀していることに端的に見られるように、日本の近・現代における戦争を全て自衛のための戦争だとし、植民地支配も肯定し、アジア・太平洋戦争もアジア解放のための戦争だという歴史観を明確、露骨に広言している施設である。靖國神社社務所発行『やすくに大百科(私たちの靖國神社』は日本の近・現代史について以下のように述べる。
 「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには、悲しいことですが外国との戦いも何度か起ったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第一時世界大戦』、昭和になっては『満州事変』『支那事変』そして『大東亜戦争(第二次世界大戦)』が起りました。…戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです。こいう事変や戦争に尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖國神社の神さまとして祀られています。…また、大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”とせられ、むざんにも生命をたたれた千数十人の方々…靖國神社ではこれらの方々を『昭和殉難者』とお呼びしていますが、すべて神様としてお祀りされています」。 
 また、靖國神社の歴史認識を具体的に表現しているのが同神社の遊就館の展示である。展示室15(大東亜戦争)の壁に、「第二次世界大戦後の各国独立」と題したアジア、アフリカの大きな地図が掲げられ、以下のような説明がなされている。
 「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」。
 このように「大東亜戦争」は侵略戦争でなく、植民地解放のための戦い、聖戦だったというのだ。そして戦後独立したアジアの各国について、独立を勝ち取った年代別に色分けし、彼の国の指導者、例えば、インドのガンジ一氏などの写真が展示されている。ところが大日本帝国の植民地であった台湾、韓国、朝鮮民主主義人民共和国については色が塗られてなく彼の国の指導者の写真も展示されていない。ただ、朝鮮半島については南北朝鮮につき小さな字で「成立:1948年」と書かれているだけである。
 (イ) 靖國神社の神々「護国の英霊」の実態
    靖國神社のいう「護国の英霊」の実態がどんなものであるか。
  a 「大西瀧治朗海軍中将命」
 大西瀧次朗は、特攻隊の生みの親とされ、敗戦時、海軍軍令部次長の地位にあり、1945年8月16日に自決した。
 遊就館には写真の他に「特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす…」と書かれた遺書も展示されている。大西は、特攻について「統率の下道」とも認めている(猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊の記録』94頁)。遊就館では「特攻散華の若人との約束『必ずあとからゆくぞ』を果し、責任を明らかにした」と解説している。
 しかし、大西が最後までポツダム宣言の受諾に反対し、陸・海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の4名中ただ一人、同宣言受諾やむなしとする米内海軍大臣に「対処する」ために阿南陸軍大臣に働きかけたりしていたことについては全く触れられていない。敗戦時の外務大臣東郷茂徳の回想録『時代の一面』(中公文庫)中8月13日の以下のような記述を見るとき、慄然とせざるを得ない。「同日(13日)夜…突然参謀総長及び軍令部総長が至急面会したいとのことであったから、首相官邸で会うことに約束し、…会談中に大西軍令部次長が入室し、甚だ緊張した態度で両総長に対し、米国の回答が満足であるとか不満足であるとか云うのは事の末であって、根本は大元帥陛下が軍に対し信任を有せられないのである。それで陛下に対し、斯々の方法で勝利を得ると云う案を上奏した上にて、御再考を仰ぐ必要がありますと述べ、更に今後二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用いれば、決して負けはせぬと述べたが、流石に両総長もこれには一語も発しないので、次長は自分に対して外務大臣はどう考えられますかと聞いて来たので…」(『時代の一面』516頁)。狂気以外のなにものでもない。
 これが靖國神社のいう「護国の英霊」大西瀧治朗なのである。
  b 「宇垣纒海軍中将命」
 第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏は、1945年8月15日夕刻、司令官「親率」と称し、九州・大分の海軍飛行場から「特攻機」11機、部下22名を引き連れて沖縄方面に向けて「出撃」した。既に戦争は終結していた。
 宇垣は「武人としてのおれの死場所はここにありと考えているのだからおれに死場所を与えろ」などと言い(前掲『神風特別攻撃隊の記録』159頁)、自殺行に部下を道連れにした(3機は不時着)。死ぬならば一人で死ねばいい。生きていれば戦後日本の担い手となっただろう若者たちを己の「美学」のために殺してしまった。残された遺族たちの気持ちはいかばかりだっただろうか。「特攻出撃」の隊長を務めさせられた中津留達雄大尉の父親は、戦後「私にとってはたった一人の息子でした。宇垣さんは戦争が終わった後、部下を私兵化して連れて行った。私はそのことで宇垣さんを恨み続けてきた。戦後しばらくはそのことを考えると気が狂うようだった」と語ったという。
 宇垣の行為は海軍刑法第31条「指揮官、休戦又ハ講和ノ告知ヲ受ケタル後、故ナク戦闘ヲ為シタルトキハ死刑ニ処ス」に該当する「私兵特攻」である。これを知らされた小沢治三郎海軍総司令長官は「玉音放送で大命を承知しながら、私情で部下を道連れにするとは以てのほか、自決するなら一人でやれ」と口をきわめて難詰したという。
 しかし、敗戦のドサクサの中で、宇垣は裁かれていないどころか「護国の英霊」として靖國神社に祀られている。「出撃」に際し、宇垣は遺書を認めているが、その遺書の署名者を「海軍大将宇垣纒」としていた。勝手に階級を上げてしまっていたのである。宇垣に関する靖國神社の展示には批判めいたことは一切書かれていない。
  c 「東條英機命」
 A級戦犯東條英機が「護国の英霊」として靖國神社に祀られていることはよく知られている。
 東條については、米国との無謀な戦争を開始し日本を破滅の途に引き入れた元凶とされているが、さらに戦争末期にも敗戦を受け入れず、執拗に継戦を主張したことも知られておかなければならない。敗戦の年2月、天皇は順次重臣(首相経験者)から意見聴取した。この意見聴取では「敗戦は最早必至…」としたいわゆる近衛上奏文が有名であるが、東條は要旨以下のように述べたという。以下は、天皇の侍従長であった藤田尚徳(海軍大将)の回想である。
 東條曰く「今日不幸なことながら我国に思想的、精神的に二つの懸念すべき点あり。御前にて言い過ぐる如きも申上ぐ。戦局の不利、爆撃の激化は人心に不安を招来し、これに加うる敵の宣伝によりて敗戦思想を植えつける。然しながら今日、太平洋戦局をみるに、硫黄島に敵は上陸し来りたるに至れるも、従来敵の占領に任せたるは外域にして、而も占領地または委任統治により新付のものにして純粋の領土に非ず、真の日本の皇土に敵を見るは今回が最初のことなり、敵は開戦前四週間にして日本を屈服せしめ得と豪語せるが、四年後の今日漸く硫黄島に取りつき得たりともいい得。空爆の程度もドイツに比すれば序の口なり、新聞報によるもドイツに対しては四千機と伝う。我にありてはB29は二千数百キロの遠方より五日または七日に一回、百機内外のものが来るに過ぎず。機動部隊よりする戦爆連合も最近始まりたるも、これも長続きするものでなし。かく見来れば、今回の我本土空襲も、近代戦の観点よりすれば序の口に過ぎず。この位のことにて日本国民がへこたれるならば、大東亜戦争完遂と大きなことはいえず。なお近代戦における宣伝の効力につきては、一般に認識不足なることより敗戦思想に冒さるるものなるが、下層民または青年につきては大した心配は要せずと思考す。生活問題に対する懸念、配給の現状、生活困難に尽きては、とかくの論議はあれど、…配給に対する苦情も、従前の飲食に対する考えより起こる。陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」。東條は、天皇の表情に「ありありとご不満の模様がみられた」にもかかわらず「委細構わず、立て板に水を流すような雄弁を続けた」という(藤田尚徳『侍従長の回想』講談社学術文庫80頁)。
 藤田はさらに次のように回想する。
 「東條大将の国民生活に対する大きな錯誤は、いまさら指摘するまでもあるまい。国民の真の姿を把握していない。生活の苦しみについても、一方的な認識しかもっていなかったようだ。塗炭の苦しみを味わっていた国民が、これを聞けばどう感じたであろうか。私も、いささか情けない思いで東條大将の言葉を聞いていた。また米軍の空襲についても、甘い判断しかもっていなかった。事実は旬日の後に東京の半ばは灰燼に帰し…」。
 これが「護国の英霊」である「東條英機命」の姿なのだ。
  d 「陸軍少佐藤井一命」
     こんな悲惨な展示もある。
 「藤井中尉(当時)は、昭和十八年春より少年飛行兵生徒隊教官として精神訓育を担当。教え子たちが特攻出撃するに及び『お前達だけを死なせない。中隊長も必ず行く』と、自らも特攻を志願した。妻子があり、操縦士でない中尉が特攻隊員に任命されるはずはなかった。夫の固い決意を知った、妻福子さんは『私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています』旨の遺書を残し、二人の幼子と共に飛行学校近くの荒川に入水した。翌日、遺体が発見された現場に駆けつけた中尉は、冷たく変わり果てた妻の足についた砂を払いながら、妻子の死を無駄にしてはならないと再度の血書嘆願を決意。中尉は異例の特攻隊員の任命を受け『妻、子に逢えることを楽しみにしております』と遺書を残し、部下の操縦する複座式戦闘機に乗り込み、特攻出撃した。筑波山を望む故郷の小高い丘の上に親子四人の墓は寄り添うように建っている」。
 これが藤井中尉及び妻子の写真らに添えられた解説である。あまりにも痛ましい。とりわけ幼子らに対しては、惨として言葉がない。しかし、これが美談として称えられていると、話は全く別となる。靖國神社は二階級特進をした藤井少佐を「護国の英霊」として祀っているのである。
  f 「海軍中将市丸利之助命」
     逆にこんな滑稽な?展示もある。
 「硫黄島の海軍守備隊長。市丸少将(当時)砲煙弾雨の凄まじい中、米大統領ルーズベルトに宛てた書簡を書いていた。この日本語で書かれた書をハワイ育ちの部下の兵士に翻訳させた。戦争に至った経緯、日本がこの戦争をどう認識しているか、難解な漢語表現も判りやすく英訳された。その書簡を参謀が腹に巻いて、最後の総攻撃に出て、遂にこの参謀は戦死した。書簡は発見され、米国に打電されると、全米の新聞は翻訳文を一斉に報じた。内容は日本の大義名分を明らかにし、米国の野心を厳しく指摘していた。この『ルーズベルトに与ふる書』は米国民に感動をもって読まれたという」。
 何が「深い感動」だ。
  g 「戦艦大和の最期」についても記しておきたい。
 戦艦1、駆逐艦5(4044人)対飛行機10機(12人)という数字がある。1945年4月7日、沖縄に向け出撃した戦艦大和が九州南西の海上で数波に亘る米軍機の一方的な攻撃を受け、沈没した際の日米の被害の比較である。航空機の支援のないままでの大和の出撃は世界の海戦史上にも類を見ない愚行であった。航空機の支援の得られない大和の出撃には勝算はなく、元々この出撃は予定されていなかった。ところが及川古志郎海軍軍令部総長が天皇に沖縄への特攻作戦を奏上した際、天皇より「航空部隊だけの出撃か」と問われ、「全兵力を使用します」と答えてしまったことから急遽出撃が決まった。その結果が前記4044人の死者である。軍指導者の無責任さがもたらしたものだ。
 軍指導部の中には、大和の沈没について、油ばかり食って役に立たない軍艦の厄介払いをしたと述べる者までいたという。
 前記宇垣纒海軍中将は書き綴っていた日記『戦藻録』(明治百年史叢書)488頁に大和の出撃、その沈没についての怒りを綴っている。
 「水上特攻隊は目的地に達する事なく茲に悲惨なる全滅となれり。〈中略〉全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念抱かしむる外何等得る處無き無暴の擧と云はずして何ぞや。〈中略〉即ち航空専門屋等は之にて厄介拂したりと思惟する向もあるべきも尚保存して決號作戦等に使用せしむるを妥當としたりと断ずるものなり。抑々茲に至れる主因は軍令部總長奏上の際航空部隊丈の總攻撃なるやの御下問に對して海軍の全兵力を使用致すと奏答せるに在りと傳ふ。唯幄に在りて籌畫補翼の任にある總長の責任蓋し輕しとせざるなり」。
 戦後、この大和の水上特攻について、大和は死に場所を得て戦艦長門の運命(ビキニの水爆実験の標的艦とされ沈没)を免れたという暴論すらなされた。無念の死を強いられた4044人についてはどうなるのか。
 靖國神社の戦艦大和の最期に関する展示には、前記軍幹部の無責任さに関する記述は一切ない。
    以上は靖國神社のいう「護国の英霊」のほんの数例にすぎない。
 (ウ) 遊就館に展示されている兵器
    遊就館に展示されている兵器の一つに「伏龍」のミニチュアがある。
 「伏龍」とは、米軍の本土上陸に備えたもので、竹の先に爆薬をつけたものを持って海中で待機し、敵の上陸用舟艇が近づいてきたら、その爆薬を艇の底に接触させて爆破しようとするものである。勿論自分も爆死する。この「伏龍」作戦に動員されたのは16歳前後の子供たちで、作家の故城山三郎氏もその一人であった。現実には8月15日の敗戦で出撃はなかったものの、劣悪な潜水具等もあって、訓練中の事故死もかなりの数に上るという。しかし、遊就館の展示は、このような「兵器」まで作って「本土決戦」をやろうとした戦争の愚劣さ、軍幹部の愚かさを告発する展示ではない。国に殉じようとした少年たちの崇高さを称えるかのように「伏龍」が展示されているのだ。もともと遊就館の展示には、戦争の悲惨さや愚劣さを訴える展示は一切ない。あるのは国難に際し、雄々しく戦い、「護国の英霊」となった靖國の「神々」についての物語だけだ。
 生前、城山三郎氏は「自分たちの青春は惨めであった。個人の幸福ということを考えることは許されなかった。如何に天皇のために死ぬか、これしか考えることは許されなかった」と述懐していた。前述したように、敗戦時、海軍軍令部次長の地位にあった大西は「今後、二千万の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用いれば、決して負けはせぬ」、と述べ、ポツダム宣言を受諾し戦争を終結しようという天皇、政府の決定を覆そうとした。
 人間魚雷「回天」の展示もとんでもない。飛行機による特攻、モーターボート「震洋」による特攻も愚劣だが、飛行機、船は構造的には引き返すことは可能であった(実際出撃したものの、悪天候などで引き返した特攻機もある)。しかし、人間魚雷「回天」は抱かれた潜水艦から放たれるや、もう引き返すことはできない。「慄然」という言葉しかない。遊就館はこのような戦慄すべき兵器を何故展示しているのだろうか。人間爆弾「桜花」の展示もある。
 二・二六事件の際の岡田首相の秘書官、敗戦時の鈴木内閣の書記官長迫水久常氏の手記『機関銃下の首相官邸』(恒文社)220頁には次のようにある。
 「私は陸軍の係官から、国民義勇戦闘隊に使用せしむべき兵器を別室に展示してあるから、閣議後見てほしいという申し入れを受けた、総理を先頭にその展示を見に行って、一同腹の底から驚き、そして憤りと絶望を感じたのであった。さすがに物に動じない鈴木首相も唖然として、側にいた私に『これはひどいなあ』とつぶやかれた。展示してある兵器というのは、手榴弾はまずよいとして、銃というのは単発であって、銃の筒先から、まず火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ、その上に鉄の丸棒を輪ぎりにした弾丸を棒で押し込んで射撃するものである。それに日本在来の弓が展示してあって、麗々しく射程距離、おおむね三、四十米、通常射手における命中率五〇%とかいてある。私は一高時代、弓術部の選手だったから、これには特に憤激を感じた。人を馬鹿にするのも程があると思った。その他は文字どおり、竹槍であり、昔ながらのさす叉である。いったい陸軍では、本気にこんな武器で国民を戦わせるつもりなのか、正気の沙汰とも覚えず、まさに具体的に戦意を喪失させ、終戦を急ぐほかないと思ったのであった」。
 いっそのこと、遊就館でも「伏龍」のミニチュア、「回天」、「桜花」の展示だけでなく、このような「本土決戦用兵器」も展示すればいい。そうすれば、馬鹿馬鹿しさがよく分かる。「お笑い靖國神社」だ。
 なお、前記東郷回想録『時代の一面』では、大西瀧治朗中将の前記発言について「流石に両総長もこれには一語も発しない」と記し、さらに「二千万の日本人を殺したところが総て機械や砲火の餌食とするに過ぎない。頑張り甲斐があるならどんな苦難も忍ぶに差支えないが、竹槍や拏弓では仕方がない。軍人が近代戦の特質を了解せぬのは余り烈しい、最早一日も遷延を許さぬところまで来たから、明日(8月14日:引用者注)は首相の考案どおり決定に導くことがどうしても必要だと感じた」と記している。靖國神社遊就館の展示を漫然と見ただけではこういうことは一切分からない。
 ウ 小括
 陸軍海軍が直接に主管運営する軍事施設であった靖國神社は、陸海軍省廃止後の第一・第二復員省管轄の時期を経て、一宗教法人として再編された。しかし、それは要するに、戦後体制において靖國神社体制を維持するための一種の便法ともいうべきものであった。
 それゆえ、以降靖國神社は、宗教法人の形をとった準国家機関的存在として、戦前と全く同じ趣旨での合祀を行うことをその存在の本旨として存在し活動を続けてきたのである。
 したがって、戦前(第二次世界大戦の敗戦及び宗教法人設立まで)、靖國神社は日本の国家権力機関そのものであったところ、戦後(宗教法人設立後)は、これが法的には形式上別人格とはなったのであるが、実質的には両者相俟って一体となって戦前と全く同様の合祀を行っているのであり、その意味においては価値・構造的にも戦前と何ら変わらない。

(5) 靖國神社における合祀
 ア 合祀手続の流れ
 靖國神社が行う合祀とは、要するに、既に祀られている祭神に新たな戦没者を「英霊」として同座、合わせて祀るということであり、合祀手続の大まかな流れは、以下のとおりとされている。
 合祀にあたっては、まず、個々の祭神の氏名等が記載された霊璽簿を招魂齋庭に設置された祭壇に置き、祝詞をあげ、魂を招き入れるとされる儀式が行われる(招魂式)。その後、この招魂式を経た霊璽簿を、御羽車に乗せ、御神体の祀られてある本殿に運ぶ。本殿に運ばれた霊璽簿に対して、さらに祝詞があげられ、魂を御神体に移すとされる儀式が行われる(神道においては、神が宿るところの対象が御神体とされ、御神体は依代(よりしろ)などと呼ばれる。靖國神社における御神体は鏡・剣とされている)。これが霊璽奉安祭と呼ばれる儀式である。この霊璽簿から御神体に魂が移った段階で、個々の祭神は初めて靖國神社の祭神となる。
 翌日、勅使参向のもと例大祭・合祀祭が斎行されて、合祀が終了する。一方で、魂の抜かれた霊璽簿は、その後、霊璽簿奉安殿に安置される。
   以上が、合祀手続の大まかな流れである。
 イ 合祀手続における祭神名票、祭神簿、霊璽簿の存在と意義
  (ア) 祭神名票
    靖國神社の祭神は、戦前戦中は、靖國神社を管轄していた陸海軍省が合祀資格審査内規にしたがって個別審査を行い、陸海軍大臣が天皇に上奏し、天皇の裁可を経て、決定していた。そして、靖國神社はこの決定にしたがって合祀していた。
 軍の管轄から離れ、宗教法人となった戦後においては、靖國神社は、日本国(厚生省、現厚生労働省)から毎年送られてくる、合祀されるべき戦没者の「氏名等」(すなわち、戦没者の氏名、階級、所属部隊、戦没年月日〔戦病死等の死亡原因・区別〕、戦没場所、戦没時本籍地、および遺族の氏名、続柄、所在)の詳細な個人情報をもとに合祀することになった。この個人情報を記載したカードが「祭神名票」であり、靖國神社においては霊璽簿及び祭神簿の原票として取り扱われ、参集殿奉安庫において保管管理されている。
  (イ) 祭神簿
 祭神簿は、靖國神社が日本国から提供を受けた祭神名票の「氏名等」の記載事項を書き写し、霊璽簿の控えとして作成される簿冊であり、参集殿奉安庫において保管管理されている。
  (ウ) 「霊璽簿」
 祭神簿をもとに、靖國神社が合祀の儀式用に作成する簿冊が霊璽簿であり、「…命(ミコト)」といった被合祀者の祭神名が墨書されている。霊璽簿は基本的には霊璽簿奉安殿において保管管理されている。

(6) 日本国と共同してなされる靖國神社合祀
 ア 戦前
  戦前は、陸海軍省で一定の基準を定め、戦没者が生じた時点において陸海軍官房内に審査委員会が設置され、出先部隊長または連隊区司令官からの上申に基づき、個別審査のうえ、陸海軍大臣(他省関係大臣会議の場合もある)から天皇に「上奏」し、「裁可」を経て、合祀が決定され、官報で発表、合祀祭が執行された。
    このように戦前は、国家神道思想に基づき、靖國神社への戦没者行為はまさに大日本帝国の行為として行われていた。
  イ 戦後
  (ア) 戦後は、1945年11月19日、将来、靖國神社に祭られるべき陸海軍軍人軍属等の招魂奉斎のための臨時大招魂祭が執行され、同祭において招魂された「みたま」の中から、合祀に必要な諸調査の済んだ「みたま」を1946年以降57回にわたって合祀してきている。
 戦後の合祀は、敗戦後の第一・第二復員省の資料及び厚生省からの通知に基づき、旧陸海軍の取扱った前例を踏襲してなされている。すなわち、戦後も厚生省は、戦前の例に従い、合祀対象になる第二次世界大戦の軍人・軍属等の戦没者につき戦没者名簿を作成し、少なくとも1977年ころまではこれを毎年、靖國神社に通知していた。文部省宗務課長は、1955年7月4日の衆議院遺家族援護特別委員会において、文部省宗務課長は「合祀につきましては、慣例によりまして、靖國神社は、復員局とか、引揚援護庁にお願いして名簿をちょうだいしてお祭りをしています」と述べ、また、同年7月23日の同委員会において、靖國神社の池田権宮司(当時)も「終戦から一年くらいの間に、各復員局にございました戦没者の方々の資料を全部神社にいただいております」と述べた。また、同年12月8日の同委員会において、山下春江厚生政務次官(当時)は「これまで靖國神社からの経歴照会等には回答し、これが合祀の推進に役立っている」と答弁している。後に述べる厚生省通知の以前、戦後間もなくから、日本国による靖國神社の戦没者合祀への直接的協力は一貫して、当然のこととして公然と行われてきたのである。
 一方、靖國神社も、戦前の陸海軍大臣からの上奏裁可に変わるものとして、日本国(厚生省)からの通知に従い、旧陸海軍の取扱った前例を踏襲して、その名簿に記載された戦没者を毎年合祀してきた。
 このように、戦後は、靖國神社の宗教法人化に伴い、直接的な日本国の単独行為としては行われていないが、少なくとも1977年ころまでは、日本国と靖國神社が一体となり、あるいは日本国の委任または格別の協力を受けて靖國神社が合祀を行っているのである。
  (イ) ところで、靖國神社の社報「靖國」などで見ると、敗戦直前の1945年4月までの祭神数は累計で約37万5000だったが、1956年秋からは急激に増え、その年の秋の新たな被合祀者は11万2609、1957年は47万1058、1958年は21万7536を数え、2001年の時点では246万6364を数えている。これは、1956年に引揚援護局長名で、各都道府県宛に通知文書を発し、戦没者調査を国・地方自治体を挙げた国家的プロジェクトとして推進したことによる。
  a 1956年11月19日の衆議院日ソ共同宣言等特別委員会において、小林英三厚相(当時)は、合祀協力の中身について言及し「政府としては、3年計画で実施し、本年は英霊の三分の一を都道府県の世話課と連絡してお祭りし、その後二年の間に全部靖國神社に祭ることを考えている」と具体的に計画を説明し、日本国政府として組織的・計画的に戦没者を靖國神社に合祀する意図を明らかにしている。
  b この政府方針に基づき発せられたのが、「靖國神社合祀事務に対する協力について」(1956年4月19日付「援発第3025号」)である。通知先は都道府県であるが、写しが復員連絡局、同支部、靖國神社宛となっている。
 この通知の冒頭には「標記について、別冊『靖國神社合祀事務協力要項』及び『昭和31年度における旧陸軍関係靖國神社合祀事務に協力するための都道府県事務要領』により処理せられたく通知します」とあり、二つの別冊文書「第一」及び「第二」に事務協力の具体的内容が記されている。
 別冊第一「靖國神社合祀事務協力要項」の第1項は、関係機関に対し、「なしうる限り好意的な配慮」で「靖國神社合祀事務の推進に協力する」ことを求め、第2項は事務処理の時期的基準を定め、第3項は、協力事務の内容として、靖國神社からの合祀通知状の遺族への交付にも協力するよう要請している。さらに第4項は事務要領の大綱について定め、その1においては、靖國神社は、その合祀者決定のため、戦没者であって一定の合祀資格条件に該当する者及びその身上に関する事項を引揚援護局に照会すると規定され、その3においては、靖國神社は引揚援護局から回付された戦没者カード(祭神名票)によって「合祀者を決定し」「合祀の祭典を執行する」と規定されており、日本国と靖國神社が一体となって合祀を進めている実態が明らかになっているのである。また、第5項は、事務要領の細部について、必要な事項につき引揚援護局は靖國神社と連絡して協力事務処理全般の調整を図るとし、第6項では合祀事務協力に係る「経費は、国庫負担とする」と明記されており、靖國神社への合祀のための事務処理経費は日本国が負担するということが明らかになっている。
 別冊第二は、1956年度についての「旧陸軍関係靖國神社合祀事務に協力するための都道府県事務要領」となっており、都道府県はこの要領に従って合祀事務を進めた。その第1項は、国が都道府県に対し1956年秋季合祀者についての選考を行い、祭神名票の調整、その引揚援護局への送付を指示し、また第2項は、都道府県作成の戦没者の身上事項の原簿は、これによって直ちに祭神名票の各項目の記載ができるようなものであることとして、その内容についても詳細に指示し、第5項は、1955年までに合祀が済んだものについて、祭神名票を靖國神社から都道府県に対し送付し、都道府県は、上記祭神名票により合祀の済否について原簿の記事を点検するとし、さらに上記作業が終了したら、祭神名票を一括して靖國神社に送付することとしているのである。また、第6項は合祀予定者の選考基準を示し、第7項は祭神名票の記入要領を示し、第9項は1956年春以降の新しい合祀者の原簿登録を指示し、第10項は合祀通知状の遺族への送付について、靖國神社の依頼に対しては事情の許す限りこれに応ずるものとするとしているのである。
 このように、別冊第二は、別冊第一を受け、日本国、地方公共団体、そして靖國神社が一体となって合祀を進めていくための一層細かなマニュアルとなっている。
  c 厚生省は、さらに1971年、厚生省援護局調査課長名で通知文書を発した(調査第47号昭和46年2月10日)。
 この厚生省の通知には、「旧陸軍関係者の身分調査の実施について」という標題がつけられ、各都道府県民生主管部長宛となっている。この通知文書は「靖國神社から依頼された標記については下記により実施されたく、旧陸軍関係戦没者身分等調査事務処理要領(昭和46年2月2日援発第119号)第3項2号の規定に基づき通知する」とするものであり、都道府県に対し戦没者について一定の調査票を作成し、それを調査課に送付することを指示し、また調査を終了した戦没者について、靖國神社から代表遺族の選定、遺族に対する通知等について依頼があった場合には、事情が許す限りその依頼に応ずるように配慮されたいとの内容のものであった。
 このように1971年当時もなお、合祀を日本国の事務として、日本国は靖國神社と一体となって、靖國合祀を行っていたのである。
  d ところで、上記通知「援発第3025号」に先立つところの、195 6年1月25日付け「旧陸軍関係靖國神社合祀事務協力要綱(案)」と、それを解説した同30日付け「要綱(案)についての説明」が同年2月2日付け厚生省引揚援護局復員課長名の通知「復員第76号」とともに、都道府県の担当課長宛に発出された。
 この「要綱(案)」によると、①戦没者の合祀をおおむね3年間で完了することをめどとすること、②合祀事務の体系を終戦前のものに準じたものに改めることが「方針」に掲げられた。具体的な作業の進め方としては、都道府県が合祀予定者を選び、引揚援護局に報告する。同局で審査したうえで合祀者を決定し、靖國神社に通報する。それに基づき、靖國神社が合祀の祭典を行い、靖國神社作成の合祀通知状を市町村役場などを通じて遺族に渡す、とされた。
 この「要綱(案)」の「説明」は「戦没者の合祀は形式的には靖國神社が行い、国や都道府県はこれに協力する」としつつも、「実質的には国や都道府県でなければ実施不可能で、実体に即応するよう事務体系を改める」と指摘している。
 すなわち、「援発第3025号」では憲法の政教分離原則への配慮から表現について一定の手直しが加えられたものの、戦前と同様に日本国が被合祀者を決定することこそ日本国及び靖國神社の基本方針であり、それが実体であったのである。

(7) 朝鮮人戦没犠牲者の合祀
  ア ポツダム宣言の受諾と朝鮮半島の植民地支配からの解放
 1945年8月14日、日本は「ポツダム宣言」を無条件で受諾した。ポツダム宣言は、「(朝鮮の自由独立を含めた)カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並吾等の決定する諸小島に局限さらるべき」とし、朝鮮半島は36年に及ぶ日本帝国主義による植民地支配から解放された。
  イ 旧植民地出身者(韓国人・台湾人)の一括合祀
  (ア) 「3年間で合祀する」という1956年援発第3025号通知の最終年度である1959年、旧植民地出身の軍人軍属の合祀が行われた。
 厚生省通知により日本国、都道府県により祭神名票が作成され、同年4月には旧陸軍軍人軍属が、同年10月には旧海軍軍人軍属の合祀が強行された。日本国・都道府県が保管する旧陸軍部隊留守名簿には「合祀済」のゴム印が押され、旧海軍身上調査表には「靖國神社/34.○.○/合祀手続済」という丸判が押され、さらに「34年10月17日靖國神社合祀済」という角印が押された。
 靖國神社が2006年11月20日付けで明らかにした朝鮮人被合祀者数は「二万一千余柱」である。一方で、1976年5月に国立国会図書館調査立法考査局が国会審議用にとりまとめた『靖国神社問題資料集』5頁によれば、2万7656名の「台湾出身者」、2万0636名の「朝鮮出身者」が合祀されている。靖國神社が被合祀者数を一桁単位で明言することを避けているのは、生存しながら合祀されているの者の存在が明らかになったためであると思料される。
  (イ) ところで、日本国は大日本帝国が徴兵・徴用によって「皇軍」に動員し戦闘に投入した結果、不幸にして犠牲となった戦没者について、その戦没の事実を正式に留守家族に通知するという人道上も最低限のことすら、日帝敗戦・植民地解放80年を経過した現在に至るまで一切行っていない。
 結局、以上の旧植民地出身者である犠牲者について、そもそも戦没の事実すら知らされていない遺族にもはかられることなく、もちろん同意もなく一方的に日本国のために殉国した「英霊」として祭祀されるという事態が現出したのである。
  (ウ) また、朝鮮半島植民地時代には日帝により創氏改名政策が強行されたが、日本国は強制された創氏名を靖国神社に通知し、靖國神社も当然のようにその創氏名に「命」を付して祭神名として、合祀しているのである。すなわち今なお、靖國神社においては植民地支配の象徴であった創氏名が使われ、その氏名で合祀されているのである。

4 本件における合祀

 本件各戦没者も、以上のような経緯のなか、別紙戦没犠牲者及び原告目録に記載されている日付・祭神名のとおり、創氏名により、遺族である原告らの同意を得ないまま靖國神社に合祀され、現在も合祀が継続されている。

第4 被告らの行為の違法性

1 判断枠組みについて

 靖國神社による本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為は、日本国による本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為を必須の前提でなされていることから、靖國神社と日本国の共同行為によりなされたものといえ、靖國神社及び日本国は共同不法行為によって原告らの人格権を侵害している。
 ところで、不法行為法における違法性については、生じた結果あるいは被侵害利益の性質と行為態様双方の相関関係で判断する相関関係説が通説である。この点、最高裁は「良好な景観に近接する地域内に居住する者が有するその景観の恵沢を享受する利益」に対する侵害が不法行為を構成するのか否かが争われた事案において、「建物の建築が第三者に対する関係において景観利益の違法な侵害となるかどうかは、被侵害行為の態様、程度、侵害の経過等を総合的に考察して判断すべきである」(最判2006年3月30日民集60巻3号948頁)と判示しており、最高裁も相関関係説を違法性の判断基準として採用し、違法性の判断にあたっては、生じた結果あるいは被侵害利益の性質のみならず、侵害行為の態様、程度、侵害の経過等の諸事情も考慮に入れるものとしている。
 そして、この違法性の判断基準である相関関係説は国家賠償法における違法性を判断する基準としても妥当するものと解せられる。
 以下、相関関係説に従って、被侵害利益と行為態様双方の点から、本件合祀の違法性について論ずる。

2 被侵害利益

(1) はじめに
 個人が亡くなった近親者を敬愛追慕することは、宗教上、習俗上その他人間としての基本的な精神的営みであり、そのために平穏な精神生活を維持することは、個人の尊厳及び幸福追求に深く関わるものであって、正当な理由なく公権力その他第三者から妨げられることのない人格的利益であり、この人格的利益は憲法13条及び20条1項に根拠を有する。

(2) 原告らの人格的利益侵害の具体的内実
  ア 原告らも上記の人格的利益を有することは当然のことであるが、亡くなった近親者との関係での原告らの人格的利益侵害がいかに侵害されているか、その具体的内実は本件事案の特質に照らして理解されなければならない。
  イ そもそも、本件各被合祀者の戦没という事態は、大日本帝国により朝鮮半島が植民地化され、強制的に「日本人」とされた本件各被合祀者がアジア・太平洋戦争の各戦地に動員されることにより生じたものであった。
 すなわち、本件各被合祀者は、大日本帝国から朝鮮人としてアイデンティティーを奪われ、無理やり戦地に駆り出され、非業の死を遂げたのである。しかも、その戦争たるや、朝鮮半島や台湾を侵略支配した後進資本主義国としての大日本帝国と先進資本主義国である欧米帝国主義との間での世界再分割を巡る角逐であって、植民地下の朝鮮人にとってはなんの関係もない戦争であり、そのような無意味な戦争に動員され、弾除けとして最前線に送り込まれた朝鮮人軍人軍属らの死はまさに強制されたものであった。本件被合祀者の遺族らにとっては、このような近親者の非業の死を受け入れること自体できないことは当然のことであり、戦没した近親者を敬愛追慕しているとしても、悲しみや苦しみは決して癒えることはなく、平穏な精神生活をかき乱されているのである。
 この時点でも原告らの人格的利益の侵害は重大かつ深刻なものであるが、本件にあっては本件被合祀者が靖國神社に合祀されることによって、さらなる人格的利益の侵害が発生し、原告らの平穏な精神生活に対するより深刻な悪影響が生じている。戦前の靖國神社は、大日本帝国の戦争政策を推進するための軍事動員施設であった。靖國神社は<軍事動員→戦没→天皇の「御親拝」>というプロセスを経ることにより、戦没者を天皇のために闘い斃れた者として位置付け、「英霊」として顕彰することで、民衆に戦没という事態を名誉なものであると扶植し、戦意を高揚し、軍事動員の屋台骨を支えた。しかしながら、朝鮮人軍人軍属戦没者は、天皇のために自ら進んで命を落としたのではなく、天皇により無理やり戦地に駆り出され、死を強制されたのであって、朝鮮人軍人軍属にとっては、戦没は名誉でも何でもないし、むしろ朝鮮を侵略支配する大日本帝国の戦争に加担させられたという点では汚辱ですらあり、遺族も同様である。そして、靖國神社には東條英機らA級戦犯12名が合祀されている。これらA級戦犯は、天皇を頂点とする戦争指導体制の最重要人物であり、朝鮮を侵略支配した張本人でもある(なお、A級戦犯のうち小磯國昭は第8代朝鮮総督、板垣征四郎は朝鮮軍司令官を歴任しており、植民地政策を推し進めた人物である)。また、靖國神社には、大日本帝国から朝鮮の独立を守ろうとして決起した朝鮮人の「義兵」らを弾圧し、殺戮する過程で戦没した日本軍警も合祀されている。これらA級戦犯や日本軍将兵こそが大日本帝国の対外侵略の下手人であり、その過程での多くのアジア民衆の犠牲者、とりわけアジア・太平洋戦争における2000万人を超えるアジア民衆の犠牲者を生み出した加害者なのである。靖國神社は、こうしたアジア民衆への加害行為の中で発生した日本軍将兵の戦没という事態を褒めたたえ、「英霊」として顕彰している。この点、高橋哲哉著『靖国問題』19頁では次のように論じられている。「『護国の神』や『英霊』や『散華』といった顕彰の言葉、『戦後日本の繁栄の礎となった尊い犠牲者』といった儀式の言葉、また大相撲の興行や庶民のお祭りの場となったなど靖国神社の芸能・文化的側面に注目する最近の靖国論などによって、靖国神社の背後にはそこに合祀された約二五〇万の戦死者の『血の海』が存在したのだということ、そして、これらの人々を含む数百万の日本軍将兵が作り出してしまった数千万のアジアの死傷者たちの『血の海』が存在したのだということが、とかく忘れられがちなのである…日本軍の戦争がもたらしたおびただしい人々の『血の海』ぬきに、靖国神社や靖国問題を論じることはできないのだ」。
 この被害と加害の関係については、戦没した朝鮮人軍人軍属についても当てはまる。大日本帝国により「日本人」として戦地に駆り出され、命を失った朝鮮人軍人軍属は、まさに大日本帝国の朝鮮侵略支配の被害者である。このような被害者が、戦後もなお聖戦史観をあけすけに語る靖國神社ではA級戦犯など加害者と同じ「護国の英霊」として合祀されているのである。まさに背理というほかない。
 さらに、朝鮮人軍人軍属戦没者は植民地下朝鮮で強制された創氏改名政策に基づく「○〇の命」という創氏名をもって合祀されている。1945年8月に日帝支配から朝鮮半島が解放され、1948年8月には大韓民国が成立しているにも関わらずである。靖國神社が編集発行した『遊就館図録』(2008年2月)には「アジア民族の独立が現実になったのは、大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」とあり、インド、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ベトナムなどは「独立」と表記されているものの、朝鮮半島と台湾は「独立」と表記されていない。靖國神社にとっては、朝鮮半島と台湾がほかならぬ大日本帝国から「独立」したという歴史事実を決して認めるわけにはいかないからである。戦後になっても朝鮮人軍人軍属戦没者を創氏名で合祀することは、いまだに朝鮮半島が日本の版図であるという靖國神社独特の特異な歴史観の顕れというほかなく、朝鮮人戦没者はいまだに「日本人」と扱われているのである。
 しかも、靖國神社合祀は遺族に無断でなされ、日本国政府による靖國神社合祀のための戦没者情報提供行為も同様に遺族に無断でなされている。戦前の靖國神社合祀は、明治天皇の聖旨によって「国家の大事に斃れたる者」に一方的に与えられる「神聖無比の恩典」であったことから、遺族や関係者の意思を確認することはまったく問題にされなかったが、戦後においても同様である。原告ら韓国人遺族は、靖國神社に対して合祀取下げを要求しているが、靖國神社は<いったん「英霊」として合祀された以上、取り下げることはできない>といい放ち、これを拒否し続けている。この靖國神社の教義に従えば、いったん靖國神社に合祀されてしまえば、未来永劫、靖國神社からは離脱することはできない。日本国憲法が保障する信教の自由の具体的な内容については「宗教を信仰し、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し変更することについて、各人が任意に決定できる」「信仰に関連して祭壇や堂宇を設け、礼拝・祈祷その他宗教上の祝典・儀式・行事および布教等を各人単独で、または他の者と共同して(…)、任意に行うことのできる自由をいう。…もちろん、宗教的行為をしない自由を含む」(芦部信喜『憲法学Ⅲ人権各論?』増補版123~124頁)と解されているが、原告ら韓国人遺族はこのような信教の自由を一切否定されているのであって、天皇から一方的に与えられる「神聖無比の恩典」を拒否する自由はない。なお、朝鮮人軍人軍属の場合、生存しているにもかかわらず、戦後、靖國神社に合祀されているケースもあるが、このようなケースでさえも靖國神社は傲岸不遜に居直り、合祀取下げ要求を拒否している。
 そのうえ、日本国政府は、日帝敗戦・植民地解放80年を迎えた今になっても、韓国人遺族に対する謝罪をしないどころか、戦没した旨の通知すらしないし、遺骨の調査・収集・返還も行わない(行おうとする努力さえも示さない)。こうした戦没の通知や遺骨の調査・収集・返還といった復員業務は、国家の基本的な義務と解せられるが、日本国政府はこれを一切ネグレクトし、放置し続ける一方、靖國神社に対する戦没者情報提供を国家的プロジェクトとして大量・長期間・組織的に行い、靖國神社と共同した合祀体制の構築に血道をあげていたのであった。この日本国政府の態度は<天皇の神社である靖國神社に合祀されることは最大の名誉であり、これが戦没者に対する復員業務である>という考えのもと、本来ならば日本国政府が行うべき復員業務を靖國神社に肩代わりさせていると理解できる。もちろん、韓国人遺族は、戦傷病者戦没者遺族等援護法などによる補償の対象から一切排除されている。
  ウ 以上をまとめると、原告ら韓国人遺族にとっての靖國神社合祀とそれによる人格権侵害の内実は次のように整理できる。
 すなわち、①朝鮮半島を植民地化した大日本帝国により強制的に「日本人」とされた自身の近親者が大日本帝国の国策遂行のための戦争に動員され、戦地において非業の死を強制された、②これにより原告ら遺族の平穏な精神生活は蹂躙され、人格的利益の侵害が発生している、③さらに、戦没した近親者は、天皇のために闘い命を落としたのではなく、天皇に殺された被害者であるが、近親者が靖國神社では加害者であるA級戦犯らとともに「護国の英霊」とされている、③「〇〇の命」という創氏改名政策に基づく創氏名での合祀や靖國神社の歴史観は、日帝敗戦・朝鮮半島解放後80年を経た現在でも朝鮮半島が日本の版図であり、戦没した近親者はいまだに「日本人」として取り扱われていることを意味する、④靖國神社合祀や日本国政府による戦没者情報提供行為が原告ら遺族に無断でなされているとしても、靖國神社が存続する限り、いったん合祀されてしまえば、未来永劫、靖國神社からは離脱することができず、韓国人遺族は信教の自由を一切否定され、天皇が一方的に与える「神聖無比の恩典」を拒否するすべすらない、⑤日本国政府は、遺族に対して、戦没の通知や遺骨の調査・収集・返還などといった国家としての基本的な義務すら果たすことなく、補償の対象からも一切排除し、靖國神社合祀をもって朝鮮人戦没者の問題はすべて解決しているとの態度を取り続けている、などという事態により、さらに原告らの人格的利益は侵害され、原告らの平穏な精神生活は蹂躙され続けているのである。
    本件において、原告らは、このような意味で人格的利益を侵害されたのであって、生じた結果は極めて深刻・重大である。

3 行為態様

(1) 本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為とそれと一体となった本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は韓国の憲法秩序に相反する公序良俗に違反する行為であること(民法90条違反)
  ア 大韓民国憲法について
 大韓民国憲法は、1948年7月12日に制定され、その後9回の改憲を経て、現在の大韓民国憲法(1987年10月29日)に至る。
 大韓民国憲法前文には「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、3・1運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義、人道及び同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を基礎として自由民主的基本秩序を一層確固にして、政治、経済、社会及び文化のすべての領域において各人の機会を均等にし、能力を最高度に発揮させ、自由及び権利に伴う責任と義務を完遂させ、内には国民生活の均等なる向上を期し、外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することにより、我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保する」とある。3・1独立運動については、1948年7月12日に大韓民国憲法が制定された当初より憲法前文に謳われており、大韓民国憲法は3・1独立運動にその正当性の根拠を有している。
 3・1独立運動とは、大日本帝国による朝鮮半島の侵略支配下1919年3月1日に高宗の葬式を機に起きた朝鮮独立を要求する朝鮮全土に及ぶ抗日独立運動である。大韓民国憲法の正当性が3・1運動に根拠を有することは、現在の韓国という国が日本の植民地支配(創氏改名に象徴されるように韓国の文化を奪い、土地を奪い)に抗する中で生まれて来たものであることからして当然である。
 この大韓民国憲法前文からするならば、大日本帝国による朝鮮半島侵略支配行為及びそれにより生じた結果は全て韓国の憲法秩序に真っ向から反し、到底許されるべきものではない。
  イ 韓国司法府の判断
    韓国司法府も、戦後補償裁判において、大日本帝国による朝鮮半島侵略支配の一環としてなされた行為が明らかに韓国の憲法秩序に相反するとの判断が次々と下している。
    日本軍「慰安婦」関係については、2011年8月30日に韓国憲法裁判所(韓国では憲法裁判所が設けられている)は、日本軍「慰安婦」とされた韓国人女性らの被害につき韓国政府が日本国政府に賠償請求をしていないことは憲法違反であるとの決定を発した。その後、日本国政府を相手とした損害賠償請求訴訟において、2021年1月8日にソウル中央地方法院が、2023年11月23日にソウル高等法院が、2025年4月25日に清州地方法院がそれぞれ請求を認容する判決を発し、確定している。
    徴用工関係については、2012年5月24日に韓国大法院(日本の最高裁判所に相当)は、日本に強制連行され強制労働をさせられた韓国人元徴用工の日本企業(三菱重工株式会社、新日鉄住金株式会社)に対する損害賠償請求を棄却した釜山及びソウル高等法院の判決を破棄し、差戻した(三菱広島徴用工訴訟、新日鉄一次訴訟)。差戻審においては、大法院は、新日鉄一次訴訟につき2018年10月30日に、三菱広島徴用工訴訟につき同年11月29日に、それぞれ請求を認容する判決を発している。さらに、大法院は、三菱名古屋勤労挺身隊訴訟につき2018年11月29日に、同二次訴訟及び新日鉄二次訴訟につき2023年12月21日に、三菱広島徴用工二次訴訟、三菱名古屋挺身隊三次訴訟及び日立造船訴訟につき同年12月28日に、新日鉄三次訴訟につき2024年1月11日に、不二越勤労挺身隊訴訟、同二次訴訟及び同三次訴訟につき2024年1月25日に、それぞれ請求を認容する判決を発した。また、三菱重工、住友電気、昭和電工を相手とした遺族会(太平洋戦争犠牲者遺族会)集団訴訟(一次)、日本企業69社を相手とした遺族会集団訴訟(二次)、日本企業17社を相手とした遺族会集団訴訟(三次)、新日鉄、三菱重工、三菱マテリアルなどを相手とした強制動員被害者ソウル訴訟、同光州二次訴訟、同光州三次訴訟なども提起され、請求を認容する判決が相次いでいる。
    以下、これら戦後補償裁判の判決のうちいくつかを引用する。
  (ア) 憲法裁判所決定(2011年8月30日:日本軍「慰安婦」関係)
    本決定は、その理由中で以下のように述べている。
 「わが憲法は、前文で『3.1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統』の継承を宣言しているが、例えわが憲法が制定される前の事といえども、国家が国民の安全と生命を保護すべきであるという最も基本的な義務を遂行できなかった日帝強制占領期に、日本軍慰安婦として強制動員され、人間の尊厳と価値が抹殺された状態で長期間悲劇的な生活を営まざるを得なかった被害者らの毀損された人間の尊厳と価値を回復させるべき義務は、大韓民国臨時政府の法統を継承した現在の政府が国民に対して負う最も根本的な保護義務に属するものである。上記の憲法規定及び本件協定第3条(※引用者注:1965年6月22日の「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」第3条を指している)の文言に照らせば、被請求人が上記第3条により紛争解決の手続を行う義務は、日本国により行われた組織的で持続的な不法行為により人間の尊厳と価値を深刻に毀損された自国民らの賠償請求権の実現に協力し保護すべきであるという憲法的要請によるものであるから、その義務の履行がなければ請求人らの基本的人権が重大に侵害を受ける可能性があり、被請求人の作為義務は憲法に由来する作為義務として法令に具体的に規定されている場合であるということができる。その上、特にわが政府が直接日本軍慰安婦被害者らの基本人権を侵害する行為をしたものではないが、上記被害者らの日本に対する賠償請求権の実現及び人間としての尊厳と価値を回復するにあたって現在の障碍状態が招来されたのは、わが政府が請求権の内容を明白にせずに『すべての請求権』という包括的概念を使用して本件協定を締結したことにも責任があるという点に注目するなら、被請求人らにその障碍状態を除去する行為を行うべき具体的義務があることは否定し難しい」。
  (イ) 大法院判決(2012年5月24日・三菱広島徴用工訴訟)
 本判決はその理由中で以下のように述べている。
 「大韓民国制憲憲法はその前文で『悠久な歴史と伝統に光輝く我ら大韓国民は己未三一運動によって大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、いま民主国家を再建するにおいて』と述べ、附則第100条では『現行法令はこの憲法に抵触しない限り効力を有する』とし、附則第101条は『この憲法を制定した国会は檀紀4278年(※引用者注:1945年)8月15日以前の悪質な反民族行為を処罰する特別法を制定できる』と規定した。また現行憲法もその前文で『悠久な歴史と伝統に光輝く我が大韓国民は3・1運動により建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抗拒した4・19民主理念を継承し』と規定した。このような大韓民国憲法の規定に照らしてみるとき、日帝強制占期の日本の韓半島支配は規範的観点から不法な強占に過ぎず、日本の不法な支配による法律関係のうち、大韓民国の憲法精神と両立しえないものはその効力が排斥されると解さなければならない。そうであれば、日本判決の理由は日帝強制占期の強制動員自体を不法であると解している大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するものであり、このような判決理由が含まれる日本判決をそのまま承認する結果はそれ自体として大韓民国の善良な風俗やその他の社会秩序に違反するものであることは明らかである。したがってわが国で日本判決を承認し、その効力を認定することはできない」。
  (ウ) 大法院判決(2018年10月30日・新日鉄一次訴訟) 
    本判決はその理由中で以下のように述べている。
 「まず、本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである。これに関する差戻し後原審の下記のような事実認定と判断は、記録上これを十分に首肯することができる。即ち、①日本政府は日中戦争や太平洋戦争など不法な侵略戦争の遂行過程において基幹軍需事業体である日本の製鉄所に必要な労働力を確保するために長期的な計画を立てて組織的に労働力を動員し、核心的な基幹軍需事業体の地位にあった旧日本製鉄は鉄鋼統制会に主導的に参加するなど日本政府の上記のような労働力動員政策に積極的に協力して労働力を拡充した。②原告らは、当時韓半島と韓国民らが日本の不法で暴圧的な支配を受けていた状況において、その後日本で従事することになる労働内容や環境についてよく理解できないまま日本政府と旧日本製鉄の上記のような組織的な欺罔により動員されたと認めるのが妥当である。③さらに、原告らは成年に至らない幼い年齢で家族と離別し、生命や身体に危害を受ける可能性が非常に高い劣悪な環境において危険な労働に従事し、具体的な賃金額も知らないまま強制的に貯金させられ、日本政府の残酷な戦時総動員体制のもとで外出が制限され、常時監視され、脱出が不可能であり、脱出の試みが発覚した場合には残酷な殴打を受けることもあった。④このような旧日本製鉄の原告らに対する行為は、当時の日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した反人道的な不法行為に該当し、かかる不法行為によって原告らが精神的苦痛を受けたことは経験則上明白である」。
  (エ) 大法院判決(2024年1月25日・不二越勤労挺身隊訴訟)
    本判決はその理由中で以下のように述べている。
 「原審は、その判示のような理由で、原告らをはじめ本件工場で働いていた勤労挺身隊員の一部が本件訴訟に先立ち日本で被告に対して訴訟を提起して本件日本判決で敗訴・確定したとしても、本件日本判決が日本の韓半島と韓国人に対する植民支配が合法的であったという規範的認識を前提として日帝の『国家総動員法』と『国民徴用令』及び『女子挺身労働令』を韓半島と原告らに適用することが有効であると評価した以上、このような判決理由が含まれる本件日本判決をそのまま承認することは大韓民国の善良な風俗やその他の社会秩序に違反するから、我が国で本件日本判決を承認してその効力を認めることはできないと判断した。原審判決理由を関連法理と記録に照らして検討すると、原審は、大法院2018年10月30日宣告2013?61381全員合議体判決の趣旨に従ったものであり、上告理由の主張のように、外国裁判の承認要件として公序良俗に関する法理を誤解したり、判例に違反するなどの誤りはない」。
 「原審は『国交正常化のための大韓民国と日本国間の基本関係に関する条約』とその付属協定のひとつである『大韓民国と日本国の間の財産及び請求権に関する問題の解決及び経済協力に関する協定』(以下『請求権協定』という)により原告らの被告に対する本件損害賠償請求権が消滅したかについて、その判示のような理由で原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配及び侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権であることを前提に、このような慰謝料請求権は請求権協定の適用対象に含まれたとは言えないと判断した。原審判決理由を関連法理と記録に照らして検討すると、原審の判断に上告理由主張のような請求権協定の適用対象及び効力に関する法理を誤解するなどの誤りはない」。
  (オ) 韓国司法府による靖國神社に対する評価
    2012年1月、在ソウル日本大使館に火炎瓶を投げ込んで、有罪判決を受けた中国人の劉強元受刑者は、裁判中に自ら、2011年12月の靖國神社門に対する放火の事実を認めていた。日本の警視庁は劉氏に対し、刑法110条1項の容疑で逮捕状をとり、日韓犯罪人引渡条約に基づき、劉氏の身柄の引渡しを求めていた。日本国政府からの劉氏の引渡し要求に応ずるべきか否かを審理したソウル高等法院第20刑事部は、2013年1月3日、劉氏の靖國神社門に対する放火を「政治的罪」と認め、劉氏を「請求国(日本引用者注)に引渡すことを許可しない」という決定をなした。
   同決定は、その理由として、以下のように論じている。
 「本件犯行対象の性格を調べると、靖國神社の第2次世界大戦終戦前の地位と役割、現在もA級戦犯が合祀されている点、第2次世界大戦終戦後も請求国内で靖國神社を国家の管理下に置こうという試みが続いた点、このような靖國神社に周辺国の反発にもかかわらず請求国の政府閣僚等、政治家たちが参拝し続けてきた点及び今までの政治状況に照らしてみた時、靖國神社が法律上では私的な宗教施設かも知れないが、事実上国家施設に相応する政治的象徴性があると評価することができる。犯罪人もまた靖國神社を単純な私的宗教施設ではなく、過去の侵略戦争を正当化する政治秩序の象徴と見なし、本件犯行を実行したことが明らかで、大韓民国と中国等、請求国の周辺国も請求国政府閣僚たちが靖國神社を参拝する毎に、強く抗議して反発したことに照らしてみる時、靖國神社が国家施設に相応する政治的象徴性があると見る見解は、犯罪人個人の独断的な見解ではなく、大韓民国をはじめ周辺国で幅広い共感を形成していると認められる」。
 「犯罪人の本件犯行動機と目的に照らしてみれば、日本軍慰安婦問題等過去の歴史的事実と靖國神社参拝に対する認識、及びそれと関連した請求国の政策に対する犯罪人の見解は大韓民国の憲法理念と国連等の国際機構や大多数の文明国家が指向する普遍的価値と、軌道を共にするものと認められる」。
  (カ) 小括
    以上、韓国司法府においても、大日本帝国による朝鮮半島侵略支配の歴史、そのなかでなされた行為及び結果が大韓民国憲法秩序に相反するものとの判断が下されているのである。       
    さらに、韓国司法府は、現在の靖國神社自体を単なる宗教法人と捉えておらず、大日本帝国による戦争遂行のための国家機関という性格を色濃く有していること、つまり、戦前と一体性・連続性を有していると評価しているのである。
  ウ 韓国国会での靖國神社問題に関する決議状況
    以下のとおり、韓国国会においてもたびたび靖國神社問題について決議が挙げられている。
  (ア) 2005年5月4日
 「大韓民国国会は、日帝侵略期に強制動員等を通じ犠牲になった韓国人21,181名が、遺族たちには何の通報もなく、太平洋戦争の主犯等と共に靖国神社に合祀されていることは、我々の伝統的な宗教観念と民俗精神に照らし、決して容認されえない点に、深く留意し、現日本総理が2001年就任以来、毎年靖国神社を参拝していることは、日本が侵略戦争に対する真の反省なく、むしろ戦争挑発国としての責任から逃れるために、日本の戦後世代に意図的に歪曲された歴史観を植えつけるためのものと理解し、これは、未来志向的な韓日関係の構築と東北アジアの平和定着に否定的影響を及ぼすのみでなく、我が国の国民を初めとする汎アジア人たちの甚大な抵抗に直面することは勿論、日本自ら外交的孤立を招くものであることを厳重に警告し、次のごとく決議する。1.大韓民国国会は、日帝侵略期に強制によって動員され犠牲になった韓国人の遺族たちに対する通報や同意なく、侵略戦争の首謀者と共に靖国神社に合祀されたという事実と現日本総理等の例年の靖国神社参拝行為に対し、深い遺憾を表し、関連の問題が早い期日の内に解決されうるよう、あらゆる努力を尽くすであろうことを明らかにする。2.大韓民国国会は、韓国人犠牲者たちが太平洋戦争を誘発したA級戦犯14名を讃えている靖国神社に合祀されていることは、我々の伝統的な宗教観念と民俗精神に照らし、決して容認されえないものであり、遺族たちの意にしたがって、日本国政府が合祀取下げに積極的に取り組むことを求める。3.大韓民国国会は、現日本総理と閣僚等が靖国神社を参拝することは、日本が真に誤った過去事を清算するという意志がないものと理解し、靖国神社参拝を中断することを強く求める。4.大韓民国国会は、我が政府が、靖国神社の韓国人合祀取下げと日本総理および閣僚等の靖国神社参拝中断のために、積極的に努力することを求める」。
  (イ) 2011年3月10日
    「大韓民国国会は、日本国政府閣僚及び責任ある指導者が、A級戦犯が合祀された靖国神社を参拝する反平和的な行為を中断し、強制的に合祀された韓国人(朝鮮人)の名簿を霊璽簿から永遠に削除し、被害者の霊魂を解放し、その遺族の恨を解くようにすることを求める」。
  (ウ) 2013年4月29日
 「大韓民国国会は、4月21日及び23日、日本の副総理を含む閣僚及び多数の国会議員が東条英機等の太平洋戦争A級戦犯が合祀された靖国神社を参拝し、日本の総理が日帝の軍国主義侵略戦争を否認する妄言を行ったことに対し、度を超えた非理性的盲動及び妄言と規定し、これを強く糾弾し、日本の一部閣僚及び国会議員が、かつて大韓民国及び中国等、アジア諸国の無辜の国民に形容しがたい凄惨な苦痛を加えた日帝軍国主義の蛮行に対し、骨身を削る徹底した反省と心からの謝罪をせず、歪曲された歴史認識に基づき、恥知らずな妄言及び妄動を続けていることは、未来志向的な北東アジアにおける友好善隣関係の構築に甚大な否定的影響をもたらし、数え切れないほどの時間が流れても、洗い流すことのできない日本帝国主義の罪過と蛮行を忘れずにいるアジア各国とその国民の強い抵抗に直面し、日本の責任ある人々と良心的な国民が過った軍国主義の亡霊の復活を放置する場合、日本は今後アジアの責任ある国家としての地位をすべて喪失し、国際社会からの孤立と非難を免れないことを強く警告し、次のとおり決議する。1.大韓民国国会は、日本の副総理等、一部閣僚及び多数の国会議員が、A級戦犯が合祀された靖国神社を参拝したこと及び総理をはじめとする一部の人々がかつての日帝軍国主義侵略戦争を否認する愚かな発言を繰り返したことについて、こうした非理性的盲動及び妄言は、未来志向的な韓日関係の構築及び北東アジアの平和定着に深刻な否定的影響を招来する外交的挑発行為という点で、これを強く糾弾する。2.大韓民国国会は、日本の責任ある人々が日本自らの未来とアジアの未来のため、これ以上太平洋戦争の戦犯を参拝する非理性的盲動及び否定できない過去を否定しようとする愚かな妄言をやめ、数多くの人々に凄惨な苦痛をもたらした日本の過去について、徹底的に反省し、心からの謝罪を表明することを強く求める。3.大韓民国国会は、大韓民国政府が日本の副総理等の靖国神社参拝及び総理による侵略戦争を否認する妄言等、軍国主義回帰の動きに対し、あらゆる外交的手段を動員し、実質的かつ効果的な強い措置をとることを求める。4.大韓民国国会は、日本の副総理等の靖国神社参拝及び総理の妄言に対し、アジア各国及びその国民、そして国際社会が問題の深刻さを深く認識し、共に対処していくことを求める」。
  エ 公序良俗性
    以上、大韓民国憲法前文、韓国司法府における判断、韓国国会の決議状況に鑑みるならば、大日本帝国による朝鮮半島侵略支配のためになされた行為及び結果は韓国憲法秩序に真っ向から相反するものといわなければならない。
 本件にあっても同様である。靖國神社は、大日本帝国による侵略戦争の中心軸に位置しており、戦後も靖國神社はその性格を一遍たりとも変えず、侵略戦争を「聖戦」などと正当化し、韓国人戦没者を「英霊」とし、天皇の赤子として合祀しているのである。このような靖國神社による韓国人戦没者合祀とその実現に向けた日本国の各情報提供行為は、まさに韓国憲法秩序を踏みにじるものである。
 ところで、日本国憲法前文は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と定めている。この日本国憲法前文に従うのであれば、当然に「他国」である韓国の憲法秩序を尊重しなければならないはずであり、韓国の憲法秩序を尊重することは、民法上の「公序」(民法90条)と位置付けられる。
 本件合祀は、上述のとおり、韓国憲法秩序を踏みにじるものであって、「他国」の憲法秩序を尊重すべき「公序」に違反しているものといわなければならない。したがって、靖國神社による本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為と日本国による本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は公序良俗に違反する。

(2) 日本国による本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は憲法違反(政教分離原則違反)という態様でなされた極めて悪質なものであること
 これまで詳論してきたように、日本国は、本件各合祀行為を含む大規模かつ継続的な合祀を実現すべく靖國神社に対して戦没者各情報提供行為を行い、これに基づく合祀予定者の決定を行っており、現在もなお靖國神社に戦没者情報を保有させている。
 この日本国による戦没者各情報提供行為等は、憲法20条3項で禁止されている「宗教的活動」、同89条後段で禁止されている宗教団体に対する公の財産供与に該当する極めて悪質なものである。

(3) 本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為並びに本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は、朝鮮半島侵略支配の被害者を侵略した加害者と共に祀るためになされたものであり、原告らとって耐えがたい屈辱と苦痛を与えるものであること
  ア 靖國神社は「一つの座布団への同座」なる論を開陳している。曰く「靖國神社の祭神は、いうなれば一枚の座布団の上に座っているので、これを分離することはできない」というのである。これは、いわゆるA級戦犯分祀論に対する反論として、対抗的に出されたものである(なお、いわゆるA級戦犯分祀論にいう「分祀」は、本来は「A級戦犯を靖國神社に祀らないようにする」との意味で言われているのであるから、「分祀」は誤りであって、正確な用語としては「遷座」、ないし「廃神」「昇神」等が相応しいと考えられる。しかし、現在一般的に「分祀」とされているので、ここでは、上記のような意味で「分祀」の語が使われているものと理解しておくこととする)。すなわち「246万余の祭神は融合しているので、もはや遷座は不可能である」となすのである。
    この靖國神社の「一つの座布団への同座」なる論は、古来の伝統的神道における祭神論・合祀論からして、明らかな誤りである。こういうところにも、外見上いかにも日本の伝統そのものであるかのように装いつつ、擬制的に宗教の形をとってきた靖國神社の欺瞞性が露呈しているのであるが、とにかく、靖國神社はそのように言っている。
  イ しかし、靖國神社のこのような合祀論に基づく合祀は、原告ら韓国人の屈辱感・苦痛をさらに甚だしいものにしている。
    その理由は、次のとおりである。
    そもそも原告らの肉親が、「日本人・天皇の赤子」として「皇軍」に編入され、韓国人には本来無関係の日本人・日本国の戦争に軍事動員され、故国故郷・家族から遠く離れた苛烈な戦場で、無惨で淋しい死を迎えなければならなかった理由は何か。
 それは、1875年の「江華島事件」以降の日本の軍事行動により、45年後である1910年、大韓帝国が大日本帝国に併合された結果、韓国人は日本帝国の臣民とされていたためである。
 この併合は、無血に行われたものでは全くなかった。日本の軍事侵略に対して、いわゆる義兵闘争を始めとして、朝鮮民族は果敢執拗に闘った。この過程での韓国人の犠牲者は、現在なお歴史学的解明が続けられているが、少なく見ても5万人以上とされている。ちなみに朝鮮駐箚軍司令部による「朝鮮暴徒討伐誌」によっても、1906年5月~1911年6月の5年間だけでも17、779人に達している。
 その結果、日本軍兵士にも多数の死傷者が生じたのであったが、その死者は、「朝鮮の不逞な暴徒・匪賊を討伐する」ために生命を捧げた「英霊」として、江華島事件の際の軍艦雲揚号の乗組員1名を嚆矢として、靖國神社に祀られ続けたのである。靖國神社の「靖國神社忠魂史」第4巻によれば、1906年~1910年の5年間だけでも、「朝鮮暴徒・匪賊討伐」軍関係者の合祀者は280人が祀られている(全体の数は、もちろんこれに尽きるものではないが、以降の叙述上とりあえず、この「280人」を以て象徴することとする)。
    すなわち、原告らの祖父は、韓国併合の結果、悲惨な死を強制されることになったのであるが、その併合のための直接の尖兵たち280人と、同じく天皇に生命を捧げた「英霊」として、靖國神社に合祀されているのである。靖國神社の言い方によれば、さらに、この280人と共に神として融合し、同じ一枚の座布団の上に座っているというのである。
 本人・遺族にとって、これほどの屈辱・苦痛を与える行為はほかにない。
  ウ 小括
 ①「東亜解放のための聖戦」という虚名の下で展開された大日本帝国の帝国主義戦争を今なお賛美し、日の丸・旭日旗の下戦い斃れた将兵を顕彰している靖國神社に原告ら遺族に無断で勝手に合祀していること、そして韓国独立後においてもなお、相変わらず「あなた方も当時は日本人だった」「お父さんは、日本人として、日本のために戦ってくれた」などと韓国人の魂を鋭く疼かせる言葉を平然と語りつつ、「一日も早く、故郷の家族のもとに帰還させてあげたい」との遺族の切実な願いをも、なおも蹂躙して強行され続けていることなどに照らせば、甚だしく違法なのであるが、さらには、②本件各戦没者たちが合祀され、ひいては同じ座布団に座らされているという、その相手こそは、朝鮮半島を侵略し、戦争被害を強制したそもそもの原因である日本人の兵士たちなのであるという、この点においても、違法の極みなのである。

(4) まとめ
 以上、本件各合祀行為及び本件合祀継続行為並びに本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為により生じた結果は、個人の人格的生存に不可欠な法的利益を侵害するという重大なものである。そして、その行為態様は、韓国の憲法秩序という公序良俗に違反するものであること、政教分離原則に違反するものであること、朝鮮半島侵略支配の加害者と共に被害者である原告らの祖父を祀るという原告らにとって耐えがたい屈辱と苦痛を与えるものであることからして極めて悪質なものである。
 したがって、靖國神社及び日本国の行為は不法行為法上、国家賠償法上も違法であることは明らかである。

第5 原告らの請求権

1 靖國神社に対して

 本件各合祀行為及び本件各合祀継続行為並びに本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為は、原告らの様々な人格権を侵害する靖國神社と日本国による共同不法行為である。
 原告ら各自は、靖國神社に対して、霊璽簿・祭神簿・祭神名票から祖父である本件被合祀者の合祀名の削除を請求する権利、謝罪文の交付請求する権利を有すると共に、原告らに生じた精神的損害を敢えて金銭評価するならば、本件被合祀者一人につき金120万円を下回ることはないので、不法行為に基づく慰謝料として金120万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払い済みに至るまで年3分の割合による金員の支払を請求する権利を有する。

2 日本国に対して

 原告らは、本件各情報提供行為及び本件各情報提供継続行為に関し、本件被合祀者に係る犠牲に関する事実情報の提供告知の撤回を請求する権利、謝罪文の交付を請求する権利と共に、日本国との関係でも原告らに生じた精神的損害は本件被合祀者一人につき金120万円と評価すべきであるから、国家賠償法に基づく慰謝料として金120万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払い済みに至るまで年3分の割合による金員の支払を請求する権利を有する。

第6 結語
 以上に縷説した如くに、靖國神社による、韓国人元日本軍軍人軍属戦没者の一方的合祀は、違憲違法の不法行為であって、直ちに絶止されねばならないものである。
 日本軍「慰安婦」問題を中心に、大日本帝国の強行したアジア太平洋戦争への動員政策の犠牲者に対する、日本国政府の戦後補償の未解決放置について、日本国政府の責任を問う世論が国連人権委員会を中心に、国際的に高い。
 そのような日本国政府と同調連携して、今なお植民地支配を肯定し、アジア太平洋戦争を「アジア解放・自存自衛の戦争」と賛美し続けている靖國神社は、旧植民地から権力的に動員された犠牲者の一方的合祀を強行して、<皇国・天皇の醜の御楯>として顕彰し、犠牲者遺族の心の傷をかきむしり苦しめ続けている。本件問題は、間違いなく、そうした国際世論によって弾劾されるべきものである。
 そもそも日本国政府は、戦後補償は一切拒否している。賃金すら支払っていない。否、戦没の公報すらネグレクトし続けてきている。このために、犠牲者の故国・故郷・家族の元への帰還を、一日千秋の想いで、しかし空しく待ち続けた遺族は数知れない。
 しかも、日本人遺族に対しては、戦傷病者戦没者遺族援護法によってそれなりの補償を行っているが(その金額は総額50兆円に達しているといわれている)、韓国人・台湾人に対しては、敢えてその適用から排除し続けてきた。その理由は「今は外国人」だからと言うのである。
 しかし、日本国及び靖國神社は、そのような切捨ての一方、「あなた方のお父さんは、当時は日本人だった。祀るのは当然」などと、遺族原告らの過去の悲しい事実を、殊更に公然と嘯いて、原告ら関係者の心の傷を新たにかきむしりつつ、しかも御都合主義丸出しに、「米国からの押しつけ憲法」であるはずの日本国憲法を振り回して、20条を楯に「信教の自由」を云々し、靖國神社合祀を押しつけ、その苦痛の受忍を要求するというダブルスタンダードを強制し続けてきているのである。
 彼らはことある毎に、「日本人ファースト」的言説を云々し続けているのであるが、しかし、このようにお手軽に使い分けされている「日本人」とは一体何であるのか。
 日本国憲法は前文において「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」と宣明している。だが、ここには、国際的に尊敬されるべき「日本」は存在していないことが確実である。日本国は、本件問題に即していかに、それに相応しい態度がとられているかを論証すべきである。
 次々と明らかになってきているところの、そうした人道に立った国際的批判の一端を、本訴状において原告は、この間の韓国における司法の動向をも紹介しつつ論じ、靖國神社合祀の不法性・絶止の必要性として明示した。それらには、実質上日本の植民地支配を引き継いだ反共軍事政権の弾圧・軛きを、多くの流血の犠牲を経て、自らの力で打倒し、民主主義の構築を実現したところの、韓国社会の動向がリアルに反映されている。
 そこには、「全ては1965年日韓条約で解決済みとする」という日本国及びかつての韓国軍事政権による国家主義の押しつけは絶対に認められないという、韓国民衆の立場が鮮烈に打ち出されているのである。
 過般、先に行われてきた靖國神社合祀絶止訴訟の最高裁判決(2025年1月17日)において、まことに示唆的な三浦守裁判官の反対意見が示された。それは直接的には「20年の除斥期間の適用の可否・当否」に関するものであったが、そこにはさらに、本件問題の最深部に存在しているところの、人道・人権・民族・国家等に関連する、原告ら遺族の運命・人生に対する深い洞察と司法の本質である<正義の実現>についての的確な認識の存在していることが確実に窺われるものであった。
 原告らは、今回改めて靖國神社合祀問題を提起するについて、現時点における日本の司法の到達点であるところのこの、「三浦反対意見」の精神が十分にふまえられた審理・判決がなされることを切望するものである。
                                                               以 上

証  拠  方  法
追って提出する。

附  属  書  類
1 訴訟委任状    6通
2 全部事項証明書  1通
3 訴状副本     2通
別紙

当事者目録(住所の一部省略)

14076     大韓民国京畿道安養市

         原         告  朴       善   燁
                       
13902     大韓民国京畿道安養市

         原         告  朴       孝   善

16895     大韓民国京畿道龍仁市

         原         告  朴       善   才

06041     大韓民国ソウル特別市江南区
         
         原         告  吉       亨   旻

21801     アメリカ合衆国メリーランド州

         原         告  呉       辰   珣
         
03314     大韓民国ソウル特別市恩平区
         
         原         告  李       星   雨

〒105-0003 東京都港区西新橋1-9-8 南佐久間町ビル2階
         むさん法律事務所  
         tel 03(5511)2600 fax 03(5511)2601
          原告ら訴訟代理人弁護士  大   口   昭   彦

〒160-0008 東京都新宿区三栄町3-14 三栄ビル3階
          四谷総合法律事務所 
         tel 03(3355)2841 fax 03(3351)9256
          原告ら訴訟代理人弁護士  内   田   雅   敏

〒105-0003 東京都港区西新橋1-21-5 
          一瀬法律事務所
          tel 03(3501)5558 fax03(3501)5565
          原告ら訴訟代理人弁護士  一   瀬   敬 一 郎

〒105-0003 東京都港区西新橋1-9-8 南佐久間町ビル2階
          むさん法律事務所  
         tel 03(5511)2600 fax 03(5511)2601
          原告ら訴訟代理人弁護士  長 谷 川   直   彦

〒104-0061 東京都中央区銀座5-15-18 銀座東新ビル4階
(送達場所)    銀座東法律事務所
          tel 03(3545)2151 fax 03(3545)2153
          原告ら訴訟代理人弁護士  浅   野   史   生

〒175-0094 東京都板橋区成増4-6-1 むさんビル1階
          むさん社会福祉法律事務所
         tel 03(6915)6329 fax 03-6915-6328
          原告ら訴訟代理人弁護士  河   村   健   夫


〒182-0024 東京都調布市布田2-35-1 石原ビル2階 
          シャローム法律事務所
         tel 042(444)1916 fax 042(444)1917
         原告ら訴訟代理人弁護士  井   堀       哲 

〒130-0022 東京都墨田区江東橋4-29-13
          第2鈴勘ビル3階302 錦糸町駅まえ法律事務所
         tel 03(6659)5292 fax 03(6659)5293
          原告ら訴訟代理人弁護士  岩   田       整

〒120-0034 東京都足立区千住3-98-604
          千住ミルディスⅡ番館 
         弁護士法人北千住パブリック法律事務所
          tel 03(5284)2101 fax 03(5284)2104
          原告ら訴訟代理人弁護士  酒   田   芳   人

〒102-0073 東京都千代田区九段北3丁目1番1号
          被         告  靖   國   神   社
          代表者代表役員  大   塚   海   夫

〒100-8977 東京都千代田区霞が関1丁目1番1号
          被         告  国
          代表者法務大臣  鈴   木   馨   祐



別紙

戦没犠牲者及び原告目録

番号 原告姓名 犠牲者との関係 犠牲者姓名 祭神名  戦没日   合祀年月日 区分1  朴善燁  孫(子の長男) 朴憲泰   中原憲泰 1944/12/19 1959/4/6  陸軍軍人2  朴孝善  孫(子の長女)3  朴善才  孫(子の次男)4  吉亨旻  孫(子の長男) 李喜敬   李田喜敬 1944/10/29 1959/10/17 海軍軍属5  呉辰珣  孫(子の長女) 朴滿秀   新山満秀 1944/2/24  1959/10/17 海軍軍属6 李星雨 孫(子の長男) 李洛鎬 松本洛鎬 1945/4/12 1959/4/6 陸軍軍属

別紙 謝罪文1(韓国語版は省略)

謝 罪 文

        年  月  日
      
朴 善燁 様
朴 孝善 様
朴 善才 様
吉 亨旻 様
呉 辰珣 様
李 星雨 様

日本国東京都千代田区九段北三丁目1番1号
宗教法人靖國神社
代表役員 大 塚 海 夫



謹 啓
 弊社は1869年の東京招魂社創建・1879年の靖國神社への改称以来一貫して、天皇制および天皇が統治を総攬するとされた大日本帝国を護持し拡大強化発展させるための、戦争・軍事行動において、皇軍として闘い、その過程で戦没した将兵・軍属等関係者の御霊を慰霊すべく、英霊として合祀し、祭礼を行ってきました。
 この祭神の中には、韓国人・台湾人の犠牲者の御霊も含まれています。これらの人達は、当時日本帝国が侵略し植民地として支配していた朝鮮半島・台湾から、大日本帝国政府によって日本軍の軍人軍属として戦地に強制動員され、戦没された方々であります。
 大日本帝国によって徴兵徴用された結果、心ならずも家族から引き離され、故郷を後にし異郷で悲惨な死を遂げられました方々が、どれほど、故国故郷で一日千秋の想いで帰還を心待ちにしていた御家族のもとにお帰りになりたかったであろうか、容易に想像されるところであります。
 そのような犠牲者であられる皆様の御霊を、弊社は日本国政府と一体となって弊社に合祀して留めおき(しかも大日本帝国が植民地政策として行った創氏名のまま)、70年間もの長年月に亘って故郷への御帰還を妨げ、御霊・御遺族の方々に多大の苦痛を与えてきましたことに、心から謝罪を致します。
 さらには、単に御霊の御帰還が遅れたのみならず、江華島事件以来の日本帝国の貴国侵略行為の過程で、貴国の愛国者と戦闘を交え戦没した日本人と共に合祀されていたということは、そもそもの戦没犠牲の理由が日本帝国の植民地政策にあったことよりして、その苦痛は言語に絶するものであられたであろうと拝察致します。
 上記に鑑みまして、弊社は関係者の皆様方に心から謝罪致すと共に、皆様の御霊が安んじて故国にお帰りになられることが出来ますよう、しかるべき措置を講ずることをお約束致します。
   敬 白


別紙謝罪文2(韓国語版は省略)

謝 罪 文

年  月  日

朴 善燁 様
朴 孝善 様
朴 善才 様
吉 亨旻 様
呉 辰珣 様
李 星雨 様      

日本国東京都千代田区永田町1丁目1番6号
日本国
総理大臣 石破 茂



謹 啓
 我が国は、1869年の東京招魂社の創建・1879年の靖國神社への改称以来、一貫して、同神社において天皇制および天皇が統治を総攬するとされた大日本帝国を護持し拡大強化発展させるための、戦争・軍事行動において、皇軍として闘い、その過程で戦没した将兵・軍属等関係者の御霊を慰霊すべく、英霊として合祀し、祭礼を行ってきました。
 この祭神の中には、韓国人・台湾人の犠牲者の御霊も含まれています。これらの方達は、当時大日本帝国が侵略し植民地として支配していた朝鮮半島・台湾から、大日本帝国政府によって日本軍の軍人軍属として戦地に強制動員され、戦没された方々であります。
 日本帝国によって徴兵徴用された結果、心ならずも家族から引き離され、故郷を後にし異郷で悲惨な死を遂げられました方々が、どれほど、故国故郷で一日千秋の想いで帰還を心待ちにしていた御家族のもとにお帰りになりたかったであろうか、容易に想像されるところであります。
 我が国が、このような遺族の皆様に、犠牲の事実の御報告さえも戦後一貫して懈怠して参ったことは、いかなる理由によっても是認されえない非人道的所為であり、心からお詫び申し上げます。
 そのような犠牲者であられた方の御霊を、我が国は戦後も靖國神社と一体となって、同神社に合祀して留めおき(しかも大日本帝国が植民地政策として行った創氏改名による氏名のまま)、70年間もの長年月に亘って故郷への御帰還を妨げ、御霊・御遺族の方々に多大の苦痛を与えてきましたことに、心から謝罪を致します。
 さらには、単に御霊の御帰還が遅れたのみならず、江華島事件以来の日本帝国の貴国侵略行為の過程で、貴国の愛国者と戦闘を交え戦没した日本人と共に合祀されていたということは、そもそもの戦没犠牲の理由が大日本帝国の植民地政策にあったことよりして、その苦痛は言語に絶するものであられたであろうと拝察致します。
 上記に鑑みまして、我が国は関係者の皆様方に心から謝罪致すと共に、皆様の御霊が安んじて故国にお帰りになられることが出来ますよう、しかるべき措置を講ずることをお約束致します。
                                敬 白


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