ノー!ハプサ第3次訴訟(「孫の世代」の合祀取消訴訟)は 9月19日(金)に提訴予定です!
ノー!ハプサ第3次訴訟(「孫の世代」の合祀取消訴訟)は
9月19日(金)に提訴予定です!
7月4~6日に、ノー!ハプサ第3次訴訟提訴に向けた、
弁護団の訪韓調査が行われ、浅野史生弁護士と
井堀哲弁護士が参加しました。
7月4日には韓国の弁護士の皆さんと意見交換を行い、
5日の午前中に原告予定者の方4名から聞き取り調査を
行いました(うち1名は米国在住のため、オンライン)。
午後からは原告集会が開催され、去る1月17日の
第2次訴訟最高裁判決・三浦守裁判官反対意見の説明と
第3次訴訟の方針を弁護団及び事務局から説明しました。
第3次訴訟の提訴は、原告予定者の方との調整の結果、
9月19日(金)と決まりました。
当日の予定は以下の通りです。
午後3時 東京地方裁判所正門前集合・提訴
午後4時 記者会見(司法記者クラブ)
午後6時半 報告集会(東京しごとセンター飯田橋5階セミナー室)
https://www.shigotozaidan.or.jp/access/index.html

闘争への決意あらたに
李熙子(イ・ヒジャ)
太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表
2025年、今年、私たちは解放80周年、韓日国交正常化60周年を迎えました。
強制動員被害者問題に関する数々の裁判をおこなってきた私たちの闘争が
どこまで進んだかを振り返ってみたいと思います。
私たちの団体は1999年末から変化の時期を迎え、
新しい拠点を設けました。
その場所はソウル鍾路にある鍾路オフィステル505号室です。
そこは強制動員被害生存者の方々や遺族の方々が怒りと
憤りをあらわにする出会いの場でした。
多くの困難に直面しましたが、被害者の話を聞きながら、
これまで以上に広く被害者運動を活性化させようと
決意しました。
当時、日本の連帯団体が私たちと共に活動を続ける
という意思を示してくださり、大きな力を得た私は、
金銀植という頼もしい青年と共に活動を続けることができました。
2000年から本格的に被害者の方々の話を聞き、記録し、
整理する作業を毎日続けました。
一人一人の被害事実を記録した会員カードを作成し、
戸籍関係書類などを個別に分類し、足りないものは
追加で要請して、被害者関連書類綴をまとめていきました。
被害事実の証明において最も重要な資料である名簿を
探すために、韓国の政府記録保存所(現国家記録院)に
何度も足を運びました。
そこで確認できた名簿は複写を申し込んで入手しましたが、
確認できなかった方も多く、労働動員なのか、軍人なのか、
軍属なのか、被害の区分も容易ではありませんでした。
また、何も知らないまま家族を奪われた遺族の終わらない
証言と記録も整理していきました。
このような記録調査と確認作業を経て始まった裁判が、
2001年6月29日、東京地方裁判所に初めて提訴された
在韓軍人軍属裁判でした。
当時、私たちの事務所には毎日たくさんの方々が集まり、
日本に対する怒りをあらわにし、家族を失った悲しみを
打ち明け、互いを慰め合う時間を過ごしました。
強制動員被害生存者の方々は、植民地時代に生まれ、
苦しい生活を送り、強制動員まで経験した悲しい
歴史の生き証人であり、特に遺族である私たちにとって、
強制動員とは何か、連れて行かれた場所でどのような
仕打ちと苦痛を受けたのか、生々しく伝えてくれる
歴史の先生でした。
簡単に書きましたが、当時は想像を絶するほど多くの
物語が積み重なり、暗澹たる気持ちでしたが、一日一日
記録していくしかありませんでした。
2000年5月三菱重工業訴訟、11月強制動員犠牲者遺骨引渡訴訟、
2001年6月在韓軍人軍属裁判(グングン裁判)、
11月小泉純一郎靖国参拝違憲アジア訴訟、
2002年韓日協定外交文書情報公開請求訴訟、
2003年グングン裁判第2次提訴準備など、
被害者の権利回復のために奔走していた私たちの団体は、
設立4年目に深刻な経済的困難に直面しました。
被害者たちの恨(ハン)が詰まった宿題の風呂敷を
どのようにしてこれからも背負い続け、進んでいけるのか、
暗澹たる悩みのなかに沈み込んでいた時、2003年1月、
民族問題研究所が手を差し伸べてくれました。
そうして民族問題研究所という新たな巣に、被害者たちの
恨に満ちた宿題を抱えたまま移ることになり、以来、
より広範な韓日市民連帯の支援を受け、多様な活動に
取り組み続けることができました。
私たちの手を最初に握ってくれた日本の連帯団体は、
被害者がどのような活動を行うべきか、
道しるべとなってくれました。
民族問題研究所は、日本の連帯団体と共に蒔いた
訴訟闘争の種を芽吹かせました。
そのような韓日市民社会団体と活動家の連帯活動のおかげで、
今日まで太平洋戦争被害者補償推進協議会(推進協)は
被害者運動を継続することができました。
しかし、多くの方々に支えられ、被害者の権利回復のための
さまざまな訴訟闘争を行いましたが、その過程でより切実に
感じたのは、これらの問題は被害者個人がすべて解決することは
できないということでした。そのため、政府が強制動員被害の
真相究明に乗り出すよう、切実な願いを込めて、特別法制定運動を
展開しました。そして2004年2月13日、ついに金元雄議員を含む
68名の国会議員が提出した「日帝強制動員真相糾明特別法」が
国会本会議で可決されました。これにより、政府傘下に
日帝強制動員被害真相糾明委員会が設立され、本格的な被害調査が
開始されました。
さらに、推進協が調査した靖国合祀被害記録を基に、より詳細な
真相調査を申請した結果、2005年3月から2007年3月まで調査が行われ、
報告書『靖国神社韓国人合祀経緯および合祀者名簿真相調査』が
作成されました。
推進協は、特別法が制定された後には、韓国でも訴訟を提起しました。
2006年に「靖国反対共同行動」を結成し、国際連帯活動を
展開したことは、何よりも大きな勇気と挑戦でした。
2007年、靖国合祀被害者の生存者である金希鍾(キム・ヒジョン)
さんと遺族10名が原告となり、靖国無断合祀撤廃訴訟を開始しました。
そして2013年、遺族27名が原告となった2次訴訟までつながって
いきました。この訴訟は2025年1月17日にようやく最終判決が下されました。
最高裁判決で三浦守裁判官の反対意見を裁判官の口から初めて聞くまで、
実に24年を要しました。
三浦裁判官の判断はきわめて当然で常識的な内容ですが、
そのような「認定」を聞くまで、すべての過程を共にしてくださった
方々の涙ぐましい献身と努力のおかげで、このような結果が
得られたと思います。
2001年グングン裁判支援会事務局支援者の方々、ノー!ハプサ事務局と
支援者の方々、裁判を導いてこられた弁護士の皆さま、
本当にありがとうございました。
原告が法廷に出席できなかった時も、毎回日本の事務局と
支援者の方々がその席を埋めてくださいました。
原告が法廷で詳細に陳述できなかった部分は、弁護士の皆さまが
補足してくださいました。そして、5分にも満たない時間で
適当に済ませて出て行ってしまったために私たち原告が
言葉を失ってしまった時、裁判官に対して抗議の声を上げ、
法廷に響き渡らせた方々も、まさに日本の支援者の皆さまでした。
7月5日に韓国で開催された裁判報告会に参加された
日本の弁護団と事務局は、孫世代の遺族が参加する訴訟闘争を
継続していく決意を表明してくださいました。
遺族が決意したからといって決してできる闘争ではありません。
これまで私たちを支えてくださった皆さまが共にしてくださる
からこそ、再び闘う勇気を出そうと思います。
日本政府が過ちを認めて謝罪するまで、私たち皆が勝利する
その日まで、共に進んでいきましょう。
皆さまの健康と安寧を心よりお祈り申し上げます。

原告からの聞き取り
訪韓の感想
弁護士 浅野 史生
2年ぶりの訪韓でした。
靖國合祀問題についての韓国の弁護士さんとの意見交換や
第三次訴訟当該のお孫さん世代の方々からの聞き取り、
原告団ご遺族への報告集会などとても充実した2泊3日でした。
若い韓国の弁護士さんがとても熱心に靖國合祀問題に
取り組んでおりとても心強く思いました。そのお一人は
「歴史に興味があるから」と参加された理由を仰っていましたが、
まさに靖國裁判は朝鮮半島と日本の近現代史を問う裁判です。
お孫さん世代の方々からの聞き取りでは、理路整然と
かつご自身の言葉で靖國合祀問題のお考えを聞くことができ、
しっかりとした聞き取り書を作ることができそうです。
イ・ヒジャさんが「第三次訴訟は“感情の闘い”ではなく、
論理の闘い”になる」と仰っていたことがとても印象に残りました。
第二次訴訟最高裁三浦反対意見を踏まえてさらに充実した論理を
弁論で展開していく上で、お孫さん世代の方々からの聞き取り結果は
非常に参考になります。原告団ご遺族お顔を見ながら直接裁判の
経過することはとても重要なことだと改めて感じました。
一審・二審・最高裁とも全く許し難いナンセンスな判決で、
ご高齢で体調も崩されている中わざわざ報告集会へ足を運んでいただき、
大変心苦しい思いでしたが、三浦反対意見を武器に今後とも
闘っていく決意を述べさせていただきました。
ご遺族・お孫さん世代の方々の思いをしっかりと受け止め、
今後とも皆さんとともに靖國合祀闘争を闘っていきます。

原告集会で方針を説明
訪韓をして~植民地支配の中にあるファミリーヒストリー
弁護士 井堀 哲
実に8年ぶりの訪韓となった。パスポートコントロールが簡素化され、
金浦空港もリニューアルされ、カルビクッパが11000ウォンに
値上がりしている等、驚きの連続であった。
今回の訪韓の主な目的は第三次訴訟の原告として名乗りを上げている、
靖國神社に合祀されている方の孫世代(第3世代)の方たちから話を
伺うことであった。果たして、韓流ドラマブームやKポップの
アイドル文化の流入や日本のアニメ文化の影響もある中で、
過去の植民支配への怒りや祖父が合祀されていることに対して
抗議する情念が、第3世代にまで引き継がれているのだろうか。
疑念と期待の入り交じった思いで、原告候補の方々の聴き取りに臨んだ。
参加した第3世代は、各界で活躍している、いわゆるインテリ層に
属すると思しき、物腰も柔らかな40代から50代(私も同世代)の
方々であり、怒りや「恨」とは一見無縁であるかのように見えた。
しかし、表現は異なるものの、全員が、植民地支配下で辛酸を
舐めさせられた祖父母の怒りと苦しみ、祖父が奪われて「戦死」
させられた後の家族の苦難の歩み、そういった家族の歴史を
親世代(第2世代)から繰り返し聞かされて自分は育ったのだ、
と力を込めて語った。そして靖國合祀を許せない理由を問うと
「もし日本が植民地支配の歴史を心から反省謝罪しているのだとしたら、
なぜ未だに祖父が靖國神社に合祀され続けているのか」と
逆に問い質されたのである。
最近、日本では著名人の家族(先祖)の歴史をたどる
「ファミリー・ヒストリー」という番組(NHK)が人気を博している。
番組の中で先祖世代の知られざるドラマが明らかにされ、
自分のアイデンティティや家族の絆に心揺さぶられて、
本人も視聴者も涙を流す。同じ涙を、(この番組では決して
語られることの無い)日本の植民地支配によって名前を奪われ、
家族を奪われ、未だ魂を靖國神社に囚われたままの家族の物語に
対しても流すことが出来るのか。
そのことを裁判所と国と靖國神社に突きつける戦いになるだろう。
9月19日(金)に提訴予定です!
7月4~6日に、ノー!ハプサ第3次訴訟提訴に向けた、
弁護団の訪韓調査が行われ、浅野史生弁護士と
井堀哲弁護士が参加しました。
7月4日には韓国の弁護士の皆さんと意見交換を行い、
5日の午前中に原告予定者の方4名から聞き取り調査を
行いました(うち1名は米国在住のため、オンライン)。
午後からは原告集会が開催され、去る1月17日の
第2次訴訟最高裁判決・三浦守裁判官反対意見の説明と
第3次訴訟の方針を弁護団及び事務局から説明しました。
第3次訴訟の提訴は、原告予定者の方との調整の結果、
9月19日(金)と決まりました。
当日の予定は以下の通りです。
午後3時 東京地方裁判所正門前集合・提訴
午後4時 記者会見(司法記者クラブ)
午後6時半 報告集会(東京しごとセンター飯田橋5階セミナー室)
https://www.shigotozaidan.or.jp/access/index.html
闘争への決意あらたに
李熙子(イ・ヒジャ)
太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表
2025年、今年、私たちは解放80周年、韓日国交正常化60周年を迎えました。
強制動員被害者問題に関する数々の裁判をおこなってきた私たちの闘争が
どこまで進んだかを振り返ってみたいと思います。
私たちの団体は1999年末から変化の時期を迎え、
新しい拠点を設けました。
その場所はソウル鍾路にある鍾路オフィステル505号室です。
そこは強制動員被害生存者の方々や遺族の方々が怒りと
憤りをあらわにする出会いの場でした。
多くの困難に直面しましたが、被害者の話を聞きながら、
これまで以上に広く被害者運動を活性化させようと
決意しました。
当時、日本の連帯団体が私たちと共に活動を続ける
という意思を示してくださり、大きな力を得た私は、
金銀植という頼もしい青年と共に活動を続けることができました。
2000年から本格的に被害者の方々の話を聞き、記録し、
整理する作業を毎日続けました。
一人一人の被害事実を記録した会員カードを作成し、
戸籍関係書類などを個別に分類し、足りないものは
追加で要請して、被害者関連書類綴をまとめていきました。
被害事実の証明において最も重要な資料である名簿を
探すために、韓国の政府記録保存所(現国家記録院)に
何度も足を運びました。
そこで確認できた名簿は複写を申し込んで入手しましたが、
確認できなかった方も多く、労働動員なのか、軍人なのか、
軍属なのか、被害の区分も容易ではありませんでした。
また、何も知らないまま家族を奪われた遺族の終わらない
証言と記録も整理していきました。
このような記録調査と確認作業を経て始まった裁判が、
2001年6月29日、東京地方裁判所に初めて提訴された
在韓軍人軍属裁判でした。
当時、私たちの事務所には毎日たくさんの方々が集まり、
日本に対する怒りをあらわにし、家族を失った悲しみを
打ち明け、互いを慰め合う時間を過ごしました。
強制動員被害生存者の方々は、植民地時代に生まれ、
苦しい生活を送り、強制動員まで経験した悲しい
歴史の生き証人であり、特に遺族である私たちにとって、
強制動員とは何か、連れて行かれた場所でどのような
仕打ちと苦痛を受けたのか、生々しく伝えてくれる
歴史の先生でした。
簡単に書きましたが、当時は想像を絶するほど多くの
物語が積み重なり、暗澹たる気持ちでしたが、一日一日
記録していくしかありませんでした。
2000年5月三菱重工業訴訟、11月強制動員犠牲者遺骨引渡訴訟、
2001年6月在韓軍人軍属裁判(グングン裁判)、
11月小泉純一郎靖国参拝違憲アジア訴訟、
2002年韓日協定外交文書情報公開請求訴訟、
2003年グングン裁判第2次提訴準備など、
被害者の権利回復のために奔走していた私たちの団体は、
設立4年目に深刻な経済的困難に直面しました。
被害者たちの恨(ハン)が詰まった宿題の風呂敷を
どのようにしてこれからも背負い続け、進んでいけるのか、
暗澹たる悩みのなかに沈み込んでいた時、2003年1月、
民族問題研究所が手を差し伸べてくれました。
そうして民族問題研究所という新たな巣に、被害者たちの
恨に満ちた宿題を抱えたまま移ることになり、以来、
より広範な韓日市民連帯の支援を受け、多様な活動に
取り組み続けることができました。
私たちの手を最初に握ってくれた日本の連帯団体は、
被害者がどのような活動を行うべきか、
道しるべとなってくれました。
民族問題研究所は、日本の連帯団体と共に蒔いた
訴訟闘争の種を芽吹かせました。
そのような韓日市民社会団体と活動家の連帯活動のおかげで、
今日まで太平洋戦争被害者補償推進協議会(推進協)は
被害者運動を継続することができました。
しかし、多くの方々に支えられ、被害者の権利回復のための
さまざまな訴訟闘争を行いましたが、その過程でより切実に
感じたのは、これらの問題は被害者個人がすべて解決することは
できないということでした。そのため、政府が強制動員被害の
真相究明に乗り出すよう、切実な願いを込めて、特別法制定運動を
展開しました。そして2004年2月13日、ついに金元雄議員を含む
68名の国会議員が提出した「日帝強制動員真相糾明特別法」が
国会本会議で可決されました。これにより、政府傘下に
日帝強制動員被害真相糾明委員会が設立され、本格的な被害調査が
開始されました。
さらに、推進協が調査した靖国合祀被害記録を基に、より詳細な
真相調査を申請した結果、2005年3月から2007年3月まで調査が行われ、
報告書『靖国神社韓国人合祀経緯および合祀者名簿真相調査』が
作成されました。
推進協は、特別法が制定された後には、韓国でも訴訟を提起しました。
2006年に「靖国反対共同行動」を結成し、国際連帯活動を
展開したことは、何よりも大きな勇気と挑戦でした。
2007年、靖国合祀被害者の生存者である金希鍾(キム・ヒジョン)
さんと遺族10名が原告となり、靖国無断合祀撤廃訴訟を開始しました。
そして2013年、遺族27名が原告となった2次訴訟までつながって
いきました。この訴訟は2025年1月17日にようやく最終判決が下されました。
最高裁判決で三浦守裁判官の反対意見を裁判官の口から初めて聞くまで、
実に24年を要しました。
三浦裁判官の判断はきわめて当然で常識的な内容ですが、
そのような「認定」を聞くまで、すべての過程を共にしてくださった
方々の涙ぐましい献身と努力のおかげで、このような結果が
得られたと思います。
2001年グングン裁判支援会事務局支援者の方々、ノー!ハプサ事務局と
支援者の方々、裁判を導いてこられた弁護士の皆さま、
本当にありがとうございました。
原告が法廷に出席できなかった時も、毎回日本の事務局と
支援者の方々がその席を埋めてくださいました。
原告が法廷で詳細に陳述できなかった部分は、弁護士の皆さまが
補足してくださいました。そして、5分にも満たない時間で
適当に済ませて出て行ってしまったために私たち原告が
言葉を失ってしまった時、裁判官に対して抗議の声を上げ、
法廷に響き渡らせた方々も、まさに日本の支援者の皆さまでした。
7月5日に韓国で開催された裁判報告会に参加された
日本の弁護団と事務局は、孫世代の遺族が参加する訴訟闘争を
継続していく決意を表明してくださいました。
遺族が決意したからといって決してできる闘争ではありません。
これまで私たちを支えてくださった皆さまが共にしてくださる
からこそ、再び闘う勇気を出そうと思います。
日本政府が過ちを認めて謝罪するまで、私たち皆が勝利する
その日まで、共に進んでいきましょう。
皆さまの健康と安寧を心よりお祈り申し上げます。
原告からの聞き取り
訪韓の感想
弁護士 浅野 史生
2年ぶりの訪韓でした。
靖國合祀問題についての韓国の弁護士さんとの意見交換や
第三次訴訟当該のお孫さん世代の方々からの聞き取り、
原告団ご遺族への報告集会などとても充実した2泊3日でした。
若い韓国の弁護士さんがとても熱心に靖國合祀問題に
取り組んでおりとても心強く思いました。そのお一人は
「歴史に興味があるから」と参加された理由を仰っていましたが、
まさに靖國裁判は朝鮮半島と日本の近現代史を問う裁判です。
お孫さん世代の方々からの聞き取りでは、理路整然と
かつご自身の言葉で靖國合祀問題のお考えを聞くことができ、
しっかりとした聞き取り書を作ることができそうです。
イ・ヒジャさんが「第三次訴訟は“感情の闘い”ではなく、
論理の闘い”になる」と仰っていたことがとても印象に残りました。
第二次訴訟最高裁三浦反対意見を踏まえてさらに充実した論理を
弁論で展開していく上で、お孫さん世代の方々からの聞き取り結果は
非常に参考になります。原告団ご遺族お顔を見ながら直接裁判の
経過することはとても重要なことだと改めて感じました。
一審・二審・最高裁とも全く許し難いナンセンスな判決で、
ご高齢で体調も崩されている中わざわざ報告集会へ足を運んでいただき、
大変心苦しい思いでしたが、三浦反対意見を武器に今後とも
闘っていく決意を述べさせていただきました。
ご遺族・お孫さん世代の方々の思いをしっかりと受け止め、
今後とも皆さんとともに靖國合祀闘争を闘っていきます。
原告集会で方針を説明
訪韓をして~植民地支配の中にあるファミリーヒストリー
弁護士 井堀 哲
実に8年ぶりの訪韓となった。パスポートコントロールが簡素化され、
金浦空港もリニューアルされ、カルビクッパが11000ウォンに
値上がりしている等、驚きの連続であった。
今回の訪韓の主な目的は第三次訴訟の原告として名乗りを上げている、
靖國神社に合祀されている方の孫世代(第3世代)の方たちから話を
伺うことであった。果たして、韓流ドラマブームやKポップの
アイドル文化の流入や日本のアニメ文化の影響もある中で、
過去の植民支配への怒りや祖父が合祀されていることに対して
抗議する情念が、第3世代にまで引き継がれているのだろうか。
疑念と期待の入り交じった思いで、原告候補の方々の聴き取りに臨んだ。
参加した第3世代は、各界で活躍している、いわゆるインテリ層に
属すると思しき、物腰も柔らかな40代から50代(私も同世代)の
方々であり、怒りや「恨」とは一見無縁であるかのように見えた。
しかし、表現は異なるものの、全員が、植民地支配下で辛酸を
舐めさせられた祖父母の怒りと苦しみ、祖父が奪われて「戦死」
させられた後の家族の苦難の歩み、そういった家族の歴史を
親世代(第2世代)から繰り返し聞かされて自分は育ったのだ、
と力を込めて語った。そして靖國合祀を許せない理由を問うと
「もし日本が植民地支配の歴史を心から反省謝罪しているのだとしたら、
なぜ未だに祖父が靖國神社に合祀され続けているのか」と
逆に問い質されたのである。
最近、日本では著名人の家族(先祖)の歴史をたどる
「ファミリー・ヒストリー」という番組(NHK)が人気を博している。
番組の中で先祖世代の知られざるドラマが明らかにされ、
自分のアイデンティティや家族の絆に心揺さぶられて、
本人も視聴者も涙を流す。同じ涙を、(この番組では決して
語られることの無い)日本の植民地支配によって名前を奪われ、
家族を奪われ、未だ魂を靖國神社に囚われたままの家族の物語に
対しても流すことが出来るのか。
そのことを裁判所と国と靖國神社に突きつける戦いになるだろう。
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