李熙子(イ・ヒジャ)さん陳述

陳述書

李熙子(イ・ヒジャ)

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私は1944年2月15日、日本が起こした侵略戦争に強制動員され、
靖国神社に合祀された李思鉉(イ·サヒョン)の娘、李熙子です。
私は靖国に合死された父の名前を取り消すために、2001年から靖国と
日本政府を相手に訴訟を起こしました。2007年には、海軍軍属に
動員され生き残って帰ってきましたが、間違って靖国に合祀された
金希鍾(キム・ヒジョン)さんをはじめ、私を含む遺族11人で靖国を
相手取って合祀取消2次訴訟を起こしました。私たちは靖国の許せない
無断合祀を正そうとしましたが、2013年10月、判決は「棄却」されました。

敗訴判決を受け入れられない私たち遺族は、原告を27人に拡大し、
すぐに3次訴訟を提起しました。原告の一人、キム·ヨンジャさんの場合は、
徴兵で連れて行かれた父親のキム·ドングンさんが1975年に合祀された
ケースもありました。靖国神社は持続的に私たち遺族を欺瞞し、
合祀させてきたわけです。
私は靖国神社を何度も訪れています。合祀取消要請書を渡しに行き、
無断合祀に抗議するためにも訪問しました。その度に靖国側は次のように
述べています。「当時、日本人として、日本のために死んだので、
あなたのお父さんの合祀は当然である。」それは私たち遺族が絶対に
容認できない強引な主張です。

次のような靖国の強引な主張は、もう一つの加害です。
第一に、「当時、日本人として死んだ」。
1945年6月11日、父が亡くなった日付から見ますと、韓国が解放される前なので、
父が当時の法的には「日本国民」だったことを認めます。
ですが父の靖国合祀は1959年4月6日に行われました。植民地だった朝鮮が
解放されてから14年が経った後です。日本政府と靖国の主張どおりなら、
その時期に靖国が合祀を進めるために、厚生省に戦死者名簿を要請し、
厚生省は要請を受け、行政処理のレベルで名簿を渡しました。これに伴い、
李思鉉という人が依然として李原思蓮という植民地時代の創始名で合祀されたのです。
1959年4月に合祀された当時、私の父が日本人ですか、法的にみると
李思鉉の国籍が日本ですか。日本が戦争で敗北したと宣言した瞬間、
植民地だった国の国民が植民地以前の国籍に戻ることになるのは常識です。

第二に、「日本のために死んだ」。
靖国は「天皇陛下の心情のように永遠の平和を祈りつつ、日本を守るために
尊い命を捧げた方々」を神として祀るそうです。それでは、私の父も
日本のために命を捧げたということですが、靖国はどういう根拠で
そのように判断しますか。
父は1939年から植民地朝鮮で施行された「国民徴用令」によって
連れて行かれました。母から聞いた話では、父が徴用を避けるために
苦労したそうです。人の耳目があるので昼間は家にいられずあちこちを
避けて歩き夜遅く帰宅し、それで家族も不安の中で過ごし、
そんな日が続くと「農作業もできない」ことで、徴用に従うしか
なかったそうです。
当時、朝鮮人は植民地で生まれた罪で強制動員されました。
彼ら一人一人が戦地に動員され、死線を越える状況で経験したはずの
各自の生と死の意味を靖国は完全に無視しました。そして、合祀を通じて
「天皇」と国家のための死だったと勝手に整理してしまいました。
誰が靖国にそのような権限を与えたのですか。

世界中の全ての国の追悼施設は遺族が望まなければ祀らず、
祀っても遺族が望めば除きます。
韓国の国立追悼施設も当然遺族が望まなければ祀りません。
なのに、なぜ靖国は遺族の意思を無視するのですか。
これまで靖国は、「一度祀られると皆一つの神になるので分離できない」
という理由で、遺族の合祀取り消し要求を黙殺してきました。
実に納得しがたい説明です。一度祀られれば一つの神になるという
靖国の教理を、父は神道を信じなかったし、私も信じないのに、
なぜそのまま従わなければならないのですか。
靖国はこういうことも言います。「私たちは私たちのままで、
あなたはあなたのやり方でお祀りすれば良いのではないか」。
遺族がなぜ合祀取り消しを要求するのか、その理由をきちんと
理解したならば、このような愚かな話はしないでしょう。

私は今年80歳を超えました。これまで訴訟を手伝ってくださった
弁護士の方々と支援者たちの情熱や暖かい心に支えられ、
再び法廷に立ちました。父のそばに行く日も遠くない年齢で、
生前に終わるかどうかも分からない戦いを続けています。
できることであれば、涙や怒りと絶望に身震いするこの30年余りを
終わらせたいが、そうすることもできず、そうしてはならないと心を
引き締めています。すべての人間の命を尊重し、平和を望む切実さが
込められているのです。この訴訟が私の生存権の問題だったら、
とっくに諦めていたはずです。私が靖国訴訟をする理由は、
家族としての義務であり、子どもの道理として人生をかけて
闘っていることです。私が生きている間は、止められない闘いです。

私がこの訴訟をあきらめない一つ目の理由は、父の尊厳のためです。
私は若くして亡くなった父の3倍以上の歳月を過ごしました。
24歳で死ななかったら、父はどんな人生を送っていたでしょうか。
ところが、日本が戦争を起こし、そのために父は自分の意思に
反して徴用され、戦場で死ななければなりませんでした。
日本は父の命を奪っただけでなく、24歳以降に父が享受できるはずの
生きる存在としての権利、何かを選択し努力し、悩み、苦しみ、
楽しむことができる人生の権利を完全に奪ったのです。
これは、私の父のように戦争に動員されたすべての植民地の人々や、
日本国民、そして侵略戦争に立ち向かって死んでいった相手国の
国民も同じです。
私は日本政府が彼らの命と人生を奪ったことに対して、必ず心からの
謝罪をしなければならないと思います。それだけが虚しく絶命された
方々にできる唯一の追悼であり、その方々が人間として尊厳を持っていた
ことを確認させる唯一の道です。

私が訴訟運動をやめない二つ目の理由は当然のことですが、
靖国合祀の取り消しを実現するためです。2001年8月に靖国神社に
初めて訪れたとき、私の前を塞いた右翼たちがいました。
「朝鮮人は帰れ、靖国の英霊を冒涜する汚い朝鮮人は立ち去れ」と
私の周りを取り巻く警察の向こうで、彼らは悪意と確信に満ちた声で
叫びました。巨大な鳥居をはさんで「朝鮮人」だった私の父は、
「天皇」と大日本帝国のために犠牲になった尊い方となり、
彼らの「保護」を受けており、唯一の血肉である私は父を冒涜する
汚い「朝鮮人」となって阻止される格好でした。

呆れて呆れた状況でした。彼らは「大東亜聖戦」という美名の下で、
他国の人が2千万人余りも命を失ったことを知らないのでしょうか?
ただ、父のような合祀者たちが「天皇」と日本のために、
犠牲になった人々だと洗脳されたからでしょうか? 靖国神社が
先頭に立って、日本の戦争責任を公式に否定し、犠牲者の死を
冒涜しています。そして、人々に戦争の正当性を絶えず巧妙に宣伝し、
教育しています。
私が父の合祀取り消しを求めるのは、私の父が「天皇」と日本のために
自発的に戦争に出なかったという理由だけではありません。
日本が明らかに戦犯国であることを靖国が認めず、靖国の前に陣取った
右翼が信じるように、父が正当な戦争に加担した人として祀られているため、
必ず合祀が取り消されるべきだと要求しているのです。
合祀取り消しは、父が戦争に賛同した人として陵辱されることを
そのままにしておくことができない、子どもとしての道理であり、
責務です。 ですから、これからの気苦労が今までより更に大きいとしても、
私の息が止まる日まで求め続けるしかありません。

絶対にこの戦いをやめない3つ目の理由は、私のような遺族を二度と作っては
ならないからです。父の痕跡を探し始めた年から34年目、
140回以上来日しました。その度に、たくさんの日本の市民たちに
会いました。私の家族史を聞いて涙を流しながら、心を痛めている方々も
おられたし、日本の過ちを心から申し訳なく思って訴訟を支援してくださる
方々もいらっしゃいました。沖縄戦で行方不明になった戦争犠牲者の
遺族である日本人の塩川さんは援護金をもらって生活しましたが、
父親なしで育ってきた人生がとても大変だったと言っていました。
母を守るために、強い心を持たなければならなかったそうです。
そんな自分の人生を語り、韓国人遺族は援護金支援もなしに
どう生きてきたのか、日本人として申し訳ない、ごめんなさいと
涙を見せました。その方々と私の心が通じたのは、家族を失う悲しみや
苦痛に共感したためであり、再び誰かが戦争によって、そのような
悲しみや苦しみをを体験してはならないという願いが同じだったためです。

ところが、変わらない日本政府と靖国神社の態度を見て、小泉元首相と
安倍元首相の参拝を見て、そして平和憲法を変えようとするのを見ながら、
日本が過去の帝国主義時代と同じ怪物になりつつあり、また他の兄弟が
私のような苦痛にさらされる危険性が高まっていると感じています。
日本が再び戦争を起こすかもしれないと気持ちなのです。
戦争の苦い傷は、日本人だからといって変わりません。未来世代には、
その痛みを経験しないようにしなければなりません。

そして、改めて気を引き締める4つ目の理由は、私の心の平安のためです。
生まれてから私の人生は、日本という国にまつわる運命でした。
幼い頃は多くの人々の心の奥の深い傷をつけた戦争のせいで、
私も父と生き別れになり、それで母方の祖母の家に継父の家に
移りながら育ちました。父がいたからといって、ただ幸せだったとは
思いませんが、父の不在から来る欠乏感はなかったでしょう。
周りの大人たちが施した親切と心からの愛を、父親がいないことに
対する同情だけで感じられ、一生何も満たされない孤独や寂しい穴を
心の片隅に置いたまま、暮らさなければなりませんでした。

父の痕跡を見つけると言って以来、私の心は地獄で堂々めぐりするだけでした。
まともな謝罪もなく、すべてが終わったという日本政府や遺族の切なる
訴えにも鼻で笑う靖国の厚かましさに、どうしようもなく腹が立ちます。
それでも、善良な日本市民たちに会えば、許さなければならないという
気持ちになったりもします。私の手を握って、心から泣きながら
申し訳なく思い、自分の国のことであり、自分の家族の問題でもあり、
靖国と戦うという日本の遺族らに会うと安心しながらも、
「戦没者を追悼する純粋な参拝なのに、なぜ内政干渉なのか」という
日本の首相の言葉に憤りを爆発させ、胸に釘を刺される思いです。
許しと怒り、憎悪の渦の中で、私は30年余りを生きてきました。
1945年に終わったという戦争が、私にはまだ進行中です。
日本が適時に父の戦死の知らせを伝えたらのであれば、解放後靖国に
合祀しなかったら、経験しなくてもよかった精神的苦痛に苦しみながら、
今も戦争の中で生きています。

私は父の死亡記録を確認してから1994年6月、忠清南道天安にある
「望郷の丘」に父の名前が刻まれてないも墓碑を建てました。
空白碑を建てた理由は、亡くなった日付と場所以外には
確認できてなかったため、もう少し詳しい記録を見つけて、
その内容まで刻みたかったし、また被害者団体活動を熱心にして、
父親を死に追い込んだ日本政府の謝罪を受けた後に、
名前を刻むことが子どもとして、きちんと道理を成すことだと
思ったからです。そのため、今でも碑石は最初に建てられたまま、
何も刻まれていません。

日本政府、そして靖国神社を訴え、敗訴という手痛い結果だけ
続いていますが、この訴訟を通じて得た大きな結実があります。
訴訟をしながら多くの被害者と遺族が関連記録を見つけたということ、
そしてそれが日本の加害の証拠であるという事実です。
そして訴訟に参加し、生存被害者たちは自分の証言を通じて
被害事実を公式に残しました。この記録を見つけるために、
訴訟を続けるのを助け、支援してくださった人々との話も大事に
残りました。国境を越えて一緒に訴訟に参加した日本人と同じ意味で
連帯した記憶も胸深く残りました。それ故に生きている私たちの闘いは、
常に亡くなられた被害者と遺族たちと共にすることであり、
良心のある日韓市民たちと一緒に続けていくものです。

私ももう戦争を終わらせたいです。心に満ちた怒りの感情を解き、
憎みや憎しみの鎖から解放されたいです。死んでいない父が
生き返って、自分の人生を広げられるわけでもないことを、
旅立った方はそのままに休ませてあげて、私は自分なりに平穏な
気持ちで、人生を整理できれば本当に良いなと思います。
心の底からの謝罪を受けて、日本を心から許すまで闘うこと、
これが私が平安を得られる唯一の道です。
裁判長。裁判官として靖国神社が本当に法と原則に沿う行為を
しているのか、21世紀の正義と常識に相応しい、正しく判決して
くださることを強く求めます。そして、人間として国籍や民族を
越えて戦争遺族の傷を慰め、二度と戦争の犠牲者をつくらないことを
願う人類愛をもって判断してくださることをもう一度求めます。
この判決が命を尊重し、戦争のない世界をつくっていく平和の道を
開いていくよう求めます。
そして、韓国に最も近い隣国の日本は、過去の過ちを認め、
これから未来に向けて命を尊重し、平和のために生まれ変わる日本に
なることを切に願います。

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