朴南順さん陳述
陳述書
朴南順
私の父は1942年11月22日に南洋群島へと動員されました。
当時、父は、南原郡の郵便局で働いていました。
父が日本軍に動員されたことについて「日本の野郎たちが
連れて行った。」と祖母はいつも話しました。
母親が私を妊娠して9ヶ月目ごろのことでした。
今も南原にいる伯父の話によると、たまに南洋群島にいると
父から手紙が来たそうです。
父の手紙には「あんまりにも暑くて服を着れない。
ふんどし一つで一週間を我慢する。」とあり、伯父はふんどしと
薬を一緒に送ったと言いながら泣いていました。
後に父の記録を探してみたら、父は1944年2月24日に
南洋群島で亡くなったそうです。
父が亡くなったことを聞いた祖母は、何日間も飲食を一切せず、
何も言わずにただ泣いていました。
母も失意のままでした。家族中が凍ったような様子だったそうです。
そして、母は私が2歳になったころに再婚しました。
祖父は、息子が死んだと聞いた時は泣きませんでしたが、
母が再婚した時は泣きわめいたそうです。
祖父は、義理の娘が再婚することを目の当たりにして、
息子の死が現実のものと感じたのかもしれません。
祖母は亡くなるまで表門を閉めずに寝ました。
祖母は、息子の死を聞いてはいましたが、自分の目では
見てないからといって毎日毎日待っていました。
毎年祭司を何回も行いました。父の誕生日にも、徴用された日も、
祖母の心が苦しい時も祭司をしました。
祖母は父が戦没したことを信じておりませんでした。
私は他人に「親がいないからだ。」と言われたくなくて、いつも、
どこにいても言行に気をつけてきた気がします。
そして、私は、21歳の時に結婚し、南原からソウルに
引っ越ししました。
祖父が早くに亡くなり、私が結婚してからすぐに祖母も病気に
なったので、私は父のことについては
あまり聞く機会がありませんでした。とても忙しい人生だったので、
ようやく60歳を越えてから
同じ立場の被害者たちと一緒に活動し始めることができました。
私も歳を取り、子供を生みましたが、その息子が24歳になった時、
息子を見ながら、
「あんな年で父は亡くなったのだな、若くて花のように美しい年で
連れて行かれたのか。」という思いがして、
とても悲しく、父が限りなく哀れに感じました。
今考えてみれば、祖母と祖父が早く亡くなったのは、
長男である父が軍隊に連れて行かれ、異国の地で戦没したからだと
思います。私は、祖母が亡くなるまで、
表門を閉めることができずに息子を待ち続けてきたことを
忘れることはできません。
父が合祀されたことは靖國神社からは知らせはなく、
合祀されていたことを知ったのは、2005年、
韓国政府記録保存書に対して軍属身上調査票の取り寄せを申請し、
取り寄せた後のことです。
この書類には、「合祀」と記載されていました。
私は、その「合祀」の意味がよくわからなかったことから、
イ・ヒジャさんにその意味を教えてもらい、父が靖國神社に
合祀されている意味がわかりました。
このとき、靖國神社がどのような場所かもイヒジャさんに
教えてもらいました。
靖國神社は天皇に忠誠を誓い、死んだ人を祀っているところです。
このことを聞いて、
なんでこのようなところに父が合祀されているのかと思いました。
とても悔しかったし、
そのときは大泣きしてしまいました。靖國神社に父の魂が
とじこまれていることを知って、
私は絶望感を感じました。なんで、私の父が戦犯と一緒に
合祀されなければならないのでしょうか。
日本政府と靖國神社は、韓国人を強制的に動員し、死なせ、
魂を閉じ込めているのです。
また、植民地時代に強制された日本式氏名で合祀されているのです。
父は今だに植民地時代を強制されているのです。
父は24歳という若さで戦没したのです。
死んだ後にまで魂が閉じ込められているのです。
日本政府と靖國神社は、父を勝手に合祀しておいて、家族にも
何の報せもよこしません。
私が今になって記録を探し出し、父のことを知ることが
できなかったなら、私は、
父が靖國神社に合祀されたことも知らぬまま、一生を親不孝の
子として暮したでしょう。
日本政府と靖國神社は、なぜ私たち家族に対して、70年を越す
長い間、心に傷を与え続けるのか、
到底理解できません。そして、侵略戦争を起こし、罪のない人々を
数多く殺しても、
悔いがないのか聞きたいと思います。
天皇のために死んだ人を祀るという靖國神社の考え方は本当に
身勝手です。
父は天皇のために死んだのではなく、天皇に殺されたのです。
私はとても悔しい思いをしています。
父や靖國神社の話題がでるたびに胸が張り裂けそうです。
祖母亡き後は、私が祭祀を執り行っていますが、
私も父の誕生日である3月3日に行っています。
わが家はキリスト教なので、その方式で追悼を行っています。
ところが、わが家の宗教とは違う靖國神社に勝手に合祀したと
いうのですから、本当に人としてしてはならないことです。
本当ならば、父は天国から私たちを見守ってくれているはずですが、
靖國神社に合祀されていることにより、
それが妨害されているのです。
犠牲者を追慕する権利は遺族にあるはずです。私の父は私が
祀るということが人として、
子として至極当然の道理です。
しかし、死んで靖國神社の神とされているのですから、
本当にあきれかえるばかりです。日本が犯した侵略戦争のせいで、
父を奪われただけでも悔しいのに、
父が靖國神社に合祀されている限り、戦争が終わり70年
過ぎても、私たち家族は皆、
未だ日本の植民地支配を受けていると考えます。
わが家には家族墓地があります。ところが父の遺骨も探せなかったし、
今は靖國神社に合祀されているので、
父の墓地は空のままです。私は私が生きている間にどんなことを
しても、父の遺骨を探し出し、
納めたいと思っています。
私は1943年生まれです。私の生きている間は、かならず
父の合祀取り下げをしなければなりません。
それが子供としての義務ですし、なによりも父が靖國神社に
合祀されているのが嫌なのです。
父のお祀りは、当然、私たち家族が執り行うべきもので、
あかの他人である靖國神社がやるべきことではありません。
靖國神社は一日も早く合祀を取り消すべきです。
朴南順
私の父は1942年11月22日に南洋群島へと動員されました。
当時、父は、南原郡の郵便局で働いていました。
父が日本軍に動員されたことについて「日本の野郎たちが
連れて行った。」と祖母はいつも話しました。
母親が私を妊娠して9ヶ月目ごろのことでした。
今も南原にいる伯父の話によると、たまに南洋群島にいると
父から手紙が来たそうです。
父の手紙には「あんまりにも暑くて服を着れない。
ふんどし一つで一週間を我慢する。」とあり、伯父はふんどしと
薬を一緒に送ったと言いながら泣いていました。
後に父の記録を探してみたら、父は1944年2月24日に
南洋群島で亡くなったそうです。
父が亡くなったことを聞いた祖母は、何日間も飲食を一切せず、
何も言わずにただ泣いていました。
母も失意のままでした。家族中が凍ったような様子だったそうです。
そして、母は私が2歳になったころに再婚しました。
祖父は、息子が死んだと聞いた時は泣きませんでしたが、
母が再婚した時は泣きわめいたそうです。
祖父は、義理の娘が再婚することを目の当たりにして、
息子の死が現実のものと感じたのかもしれません。
祖母は亡くなるまで表門を閉めずに寝ました。
祖母は、息子の死を聞いてはいましたが、自分の目では
見てないからといって毎日毎日待っていました。
毎年祭司を何回も行いました。父の誕生日にも、徴用された日も、
祖母の心が苦しい時も祭司をしました。
祖母は父が戦没したことを信じておりませんでした。
私は他人に「親がいないからだ。」と言われたくなくて、いつも、
どこにいても言行に気をつけてきた気がします。
そして、私は、21歳の時に結婚し、南原からソウルに
引っ越ししました。
祖父が早くに亡くなり、私が結婚してからすぐに祖母も病気に
なったので、私は父のことについては
あまり聞く機会がありませんでした。とても忙しい人生だったので、
ようやく60歳を越えてから
同じ立場の被害者たちと一緒に活動し始めることができました。
私も歳を取り、子供を生みましたが、その息子が24歳になった時、
息子を見ながら、
「あんな年で父は亡くなったのだな、若くて花のように美しい年で
連れて行かれたのか。」という思いがして、
とても悲しく、父が限りなく哀れに感じました。
今考えてみれば、祖母と祖父が早く亡くなったのは、
長男である父が軍隊に連れて行かれ、異国の地で戦没したからだと
思います。私は、祖母が亡くなるまで、
表門を閉めることができずに息子を待ち続けてきたことを
忘れることはできません。
父が合祀されたことは靖國神社からは知らせはなく、
合祀されていたことを知ったのは、2005年、
韓国政府記録保存書に対して軍属身上調査票の取り寄せを申請し、
取り寄せた後のことです。
この書類には、「合祀」と記載されていました。
私は、その「合祀」の意味がよくわからなかったことから、
イ・ヒジャさんにその意味を教えてもらい、父が靖國神社に
合祀されている意味がわかりました。
このとき、靖國神社がどのような場所かもイヒジャさんに
教えてもらいました。
靖國神社は天皇に忠誠を誓い、死んだ人を祀っているところです。
このことを聞いて、
なんでこのようなところに父が合祀されているのかと思いました。
とても悔しかったし、
そのときは大泣きしてしまいました。靖國神社に父の魂が
とじこまれていることを知って、
私は絶望感を感じました。なんで、私の父が戦犯と一緒に
合祀されなければならないのでしょうか。
日本政府と靖國神社は、韓国人を強制的に動員し、死なせ、
魂を閉じ込めているのです。
また、植民地時代に強制された日本式氏名で合祀されているのです。
父は今だに植民地時代を強制されているのです。
父は24歳という若さで戦没したのです。
死んだ後にまで魂が閉じ込められているのです。
日本政府と靖國神社は、父を勝手に合祀しておいて、家族にも
何の報せもよこしません。
私が今になって記録を探し出し、父のことを知ることが
できなかったなら、私は、
父が靖國神社に合祀されたことも知らぬまま、一生を親不孝の
子として暮したでしょう。
日本政府と靖國神社は、なぜ私たち家族に対して、70年を越す
長い間、心に傷を与え続けるのか、
到底理解できません。そして、侵略戦争を起こし、罪のない人々を
数多く殺しても、
悔いがないのか聞きたいと思います。
天皇のために死んだ人を祀るという靖國神社の考え方は本当に
身勝手です。
父は天皇のために死んだのではなく、天皇に殺されたのです。
私はとても悔しい思いをしています。
父や靖國神社の話題がでるたびに胸が張り裂けそうです。
祖母亡き後は、私が祭祀を執り行っていますが、
私も父の誕生日である3月3日に行っています。
わが家はキリスト教なので、その方式で追悼を行っています。
ところが、わが家の宗教とは違う靖國神社に勝手に合祀したと
いうのですから、本当に人としてしてはならないことです。
本当ならば、父は天国から私たちを見守ってくれているはずですが、
靖國神社に合祀されていることにより、
それが妨害されているのです。
犠牲者を追慕する権利は遺族にあるはずです。私の父は私が
祀るということが人として、
子として至極当然の道理です。
しかし、死んで靖國神社の神とされているのですから、
本当にあきれかえるばかりです。日本が犯した侵略戦争のせいで、
父を奪われただけでも悔しいのに、
父が靖國神社に合祀されている限り、戦争が終わり70年
過ぎても、私たち家族は皆、
未だ日本の植民地支配を受けていると考えます。
わが家には家族墓地があります。ところが父の遺骨も探せなかったし、
今は靖國神社に合祀されているので、
父の墓地は空のままです。私は私が生きている間にどんなことを
しても、父の遺骨を探し出し、
納めたいと思っています。
私は1943年生まれです。私の生きている間は、かならず
父の合祀取り下げをしなければなりません。
それが子供としての義務ですし、なによりも父が靖國神社に
合祀されているのが嫌なのです。
父のお祀りは、当然、私たち家族が執り行うべきもので、
あかの他人である靖國神社がやるべきことではありません。
靖國神社は一日も早く合祀を取り消すべきです。
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