南相九さん(東北アジア歴史財団)陳述 「靖国神社の韓国人無断合祀、何が問題なのか」
陳述書
靖国神社の韓国人無断合祀、何が問題なのか
南相九(東北アジア歴史財団)
東北アジア歴史財団の南相九です。
私は、1996年から千葉大学で留学し、2005年、「戦後日本における戦争犠牲者の記憶」という論文で博士学位を取りました。
2005年、韓国に戻った後は、2年間、強制動員真相究明委員会で、海外に残された韓国人被害者の遺骨の調査や日本政府との
交渉を担当しました。
そして、その時、靖国神社に韓国人が合祀された経緯と名簿に関する真相調査を行いました。
2007年からは東北アジア歴史財団で研究員として働いてます。
私は、書面で提出した陳述書で、
(1)1876年江華島事件から始まる日本の韓国侵略において靖国神社が果たした役割、
(2)日本の侵略戦争に韓国人を動員する際に、靖国神社が果たした役割、
(3)韓国侵略や植民地支配を正当化する靖国神社の歴史認識の問題、
(4)日本政府が敗戦後、韓国人を靖国神社に合祀する際に、果たした役割と責任
について述べました。
今日は、私に与えられた時間が短いので、具体的な資料は一々挙げずに、お話しをしたいと思います。
詳しいことは書面の陳述書を参考にしてくだいさい。
まず、1点目です。靖国神社は、日本の韓国侵略を正当化し、後押しした施設です。
1876年、江華島事件をおこした日本は、その後、次々と不当な条約を強要し、韓国の権利を奪いました。
そして、日本の侵略に武力で抵抗した東学農民軍や義兵を虐殺しました。
日本軍に虐殺された義兵の数は未だに明らかにされていませんが、朴殷植(パク・ウンシク)は,1920年に発刊された
『韓国独立運動之血史』で、10万人余りだいいました。朝鮮駐箚軍司令部が発刊した『朝鮮暴徒討伐誌』によると、
1906年5月から1911年6月まで虐殺された義兵は17,779人です。
一方、日露戦争から1910年までに義兵を弾圧する中で死亡し、靖国神社に合祀された日本の軍人や警官は、280人です。
『靖国神社忠魂史』を見ると、義兵は、「匪徒」や「賊」であり、「駆逐」すべき対象として評価されます。
そして、義兵を弾圧する中で死亡した、日本の軍人や警官は「匪徒討伐作戦の犠牲者」などとして高く顕彰します。
2点目です。靖国神社は韓国人を日本の植民地支配や侵略戦争に動員するために利用された施設です。
一つ事例を挙げて説明します。
1919年3月4日、平安南道大同郡金祭面院場里の市日に集まった地域周辺の民衆の約3,000人が独立を要求するデモ行進をしました。
これを防ぐため、沙川憲兵駐在所の日本人憲兵と朝鮮人憲兵補助員が発砲し、13人が死亡、40人余りが重軽傷を負いました。
怒った民衆は発砲した憲兵1人と憲兵補助員である姜炳一(カン・ビョンイル)、金星圭(キム・ソンギュ)、朴堯燮(パク・ヨソプ)を
殺害しました。首謀者である曺振鐸(チョ・ジンタク)は、殺害容疑で逮捕され、1922年10月17日、平壌監獄で絞首刑にされました。
亡くなった3人の憲兵補助員は、その功績(?)を認められて、1921年4月27日に実施された第42回臨時大祭で日本の軍人と共に
靖国神社に合祀されます。
さて、韓国か解放された後、絞首刑にされた曺振鐸は、1963年、建国勲章国民長を受けます。
一方、大統領傘下の機関である親日反民族行為真相糾明委員会は、民衆に発砲した憲兵補助員3名を「親日反民族行為者」だと決定します。
日本に国権を奪われなかったら、これら3人が「親日反民族行為者」という汚名を残さなかったはすです。
彼らが合祀されている靖国神社に、この裁判の原告らの両親や兄弟も同じ靖国神社に合祀されています。
1937年、日本は中国を侵略した後、戦争が拡大すると、兵力が不足したため、韓国人を軍人や軍属として動員しようします。
しかし、義兵戦争の記憶が強烈に残っていたし、中国では韓国の独立軍が活動していたので、韓国人に銃を与えることを躊躇しました。
韓国人を戦争に動員するためには、韓国人が日本の兵士となり、戦争で命を捧げるのは光栄であり、名誉だという意識を
植え付けなければならなかったのです。
そのために動員されたのが靖国神社でした。朝鮮総督府は、新聞などを通して韓国人も戦争に出て、戦死すれば日本人と同様に
靖国神社に合祀される光栄を享受できると煽りました。教科書を通じても「日本人として生まれ、靖国神社に祀られるのは
これ以上ない名誉なこと」だと教え込みました。
3点目です。靖国神社は日本の韓国侵略や植民地支配を正当化、美化する施設です。
1995年8月15日、村山富市総理は、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」という談話を発表しました。
日本政府は、村山談話以降も、侵略と植民地支配に対して謝罪と反省を表明してきました。
ところが、日本がこのような過ちを犯した際に、その過ちを精神的に支えたのが靖国神社でした。
靖国神社は、今も依然として日本の侵略戦争と植民地支配を日本の独立を守るためだったと主張しています。
靖国神社に合祀された者は、誤った国策の被害者ではなく、日本の独立を守るために犠牲になったのであり、
それは後世に知らせなければならない業績であるというのが靖国神社の主張です。この論理によれば、
韓国を侵略する過程で義兵に殺された者も、強制的に動員されて犠牲になった韓国人も日本のために命を捧げた尊い犠牲となるのです。
4点目です。韓国人の靖国神社合祀を靖国神社と共同で謀り、個人の資料を提供した日本政府の責任の問題です。
1993年日本政府が韓国政府に移管した資料を見ると、日本の軍事や軍属として動員された韓国人は、243、992人であり、
死亡、行方不明者は22、182人です。靖国神社に合祀された韓国人は、日本国立国会図書館入法調査局が発刊した
『靖国神社問題資料集』(1976年)によると20,636人、東京新聞1995年8月26日の報道によると21,181人です。
軍人や軍属として動員され死亡した韓国人の大部分が靖国神社に合祀されていることが分かります。
1945年の解放以前、韓国人の国籍は日本でした。しかし、解放とともに韓国人は国籍を回復しました。日本が敗戦し、
靖国神社を管理した陸軍省と海軍省は解体され、靖国神社は宗教法人になります。
しかし、日本政府は、陸軍省と海軍省の業務を引き継いだ厚生の関係者を靖国神社合祀の対象を議論する会議に出席させ、
韓国人合祀問題を議論しました。そして、靖国神社の合祀は厚生省が提供した資料に基づいて行われまいた。
厚生省が靖国神社に提供した韓国人の資料は、20,727人分です。
日本政府は合祀者の選定は、あくまで靖国神社が独自に決定するものだと主張しますが、靖国神社は日本政府の主張とは異なり、
合祀者の選定は「厚生省が、戦争によ る「公務死」として認定することによって、神社が合祀するようになったのである。
(中略)
戦争による公務死に該当するのかしないのかは、靖国神社当局が好き勝手に判断できる問題ではないので、
国家の決定に従うのは当然の手続」だと言ってます。また、韓国人合祀の経緯については、
「かつて同胞として共に戦地に赴き、戦没された方々への慰霊と敬慕の思いから、 旧厚生省引揚援護局に協力を求め、
その回答資料に基づき合祀」したと説明してます。
日本政府は、協力無に、韓国人の靖国神社合祀はあり得なかったというの明白です。
日本政府は、1952年4月19日、法務府民事局長の「平和条約の発効に伴う朝鮮人・台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」
という通達をもとに、日本に居住する韓国人の日本国籍を一括して「剥奪」しました。日本政府は、日本国籍を持っていない
韓国人戦死者の個人資料を靖国神社に提供したのです。しかし、日本政府は韓国の遺族たちには靖国神社合祀の事実はもちろん、
戦死通報すらしませんでした。
日本政府は、遺族の同意なしに韓国人戦争被害者の身上資料を靖国神社に提供した結果、遺族の意思に反して同神社に合祀された事実に対して、責任を認めるべきです。
靖国神社に合祀された韓国人の問題は、同神社が霊璽簿から原告親や兄弟の名前を削除し、これ以上は神として祀らないと宣言すると、
解決できます。しかし、靖国神社は宗教法人の外皮を被り、宗教的教義を掲げてそれを拒否しています。
日本の裁判所は「宗教的な寛容」を掲げて訴訟を棄却しました。
以上で、お説明したように、原告である韓国人の遺族の立場から見れば、靖国神社の韓国人合祀の問題は、
日本の韓国侵略と植民地支配に対する歴史認識を問う問題であり、原告の名誉に関する問題です。
日本の韓国侵略と植民地支配を美化する靖国神社に親や兄弟が合祀されたことは、残された子として、
耐えられる限度を遥かに越えた屈辱だと思います。
以上です。
靖国神社の韓国人無断合祀、何が問題なのか
南相九(東北アジア歴史財団)
東北アジア歴史財団の南相九です。
私は、1996年から千葉大学で留学し、2005年、「戦後日本における戦争犠牲者の記憶」という論文で博士学位を取りました。
2005年、韓国に戻った後は、2年間、強制動員真相究明委員会で、海外に残された韓国人被害者の遺骨の調査や日本政府との
交渉を担当しました。
そして、その時、靖国神社に韓国人が合祀された経緯と名簿に関する真相調査を行いました。
2007年からは東北アジア歴史財団で研究員として働いてます。
私は、書面で提出した陳述書で、
(1)1876年江華島事件から始まる日本の韓国侵略において靖国神社が果たした役割、
(2)日本の侵略戦争に韓国人を動員する際に、靖国神社が果たした役割、
(3)韓国侵略や植民地支配を正当化する靖国神社の歴史認識の問題、
(4)日本政府が敗戦後、韓国人を靖国神社に合祀する際に、果たした役割と責任
について述べました。
今日は、私に与えられた時間が短いので、具体的な資料は一々挙げずに、お話しをしたいと思います。
詳しいことは書面の陳述書を参考にしてくだいさい。
まず、1点目です。靖国神社は、日本の韓国侵略を正当化し、後押しした施設です。
1876年、江華島事件をおこした日本は、その後、次々と不当な条約を強要し、韓国の権利を奪いました。
そして、日本の侵略に武力で抵抗した東学農民軍や義兵を虐殺しました。
日本軍に虐殺された義兵の数は未だに明らかにされていませんが、朴殷植(パク・ウンシク)は,1920年に発刊された
『韓国独立運動之血史』で、10万人余りだいいました。朝鮮駐箚軍司令部が発刊した『朝鮮暴徒討伐誌』によると、
1906年5月から1911年6月まで虐殺された義兵は17,779人です。
一方、日露戦争から1910年までに義兵を弾圧する中で死亡し、靖国神社に合祀された日本の軍人や警官は、280人です。
『靖国神社忠魂史』を見ると、義兵は、「匪徒」や「賊」であり、「駆逐」すべき対象として評価されます。
そして、義兵を弾圧する中で死亡した、日本の軍人や警官は「匪徒討伐作戦の犠牲者」などとして高く顕彰します。
2点目です。靖国神社は韓国人を日本の植民地支配や侵略戦争に動員するために利用された施設です。
一つ事例を挙げて説明します。
1919年3月4日、平安南道大同郡金祭面院場里の市日に集まった地域周辺の民衆の約3,000人が独立を要求するデモ行進をしました。
これを防ぐため、沙川憲兵駐在所の日本人憲兵と朝鮮人憲兵補助員が発砲し、13人が死亡、40人余りが重軽傷を負いました。
怒った民衆は発砲した憲兵1人と憲兵補助員である姜炳一(カン・ビョンイル)、金星圭(キム・ソンギュ)、朴堯燮(パク・ヨソプ)を
殺害しました。首謀者である曺振鐸(チョ・ジンタク)は、殺害容疑で逮捕され、1922年10月17日、平壌監獄で絞首刑にされました。
亡くなった3人の憲兵補助員は、その功績(?)を認められて、1921年4月27日に実施された第42回臨時大祭で日本の軍人と共に
靖国神社に合祀されます。
さて、韓国か解放された後、絞首刑にされた曺振鐸は、1963年、建国勲章国民長を受けます。
一方、大統領傘下の機関である親日反民族行為真相糾明委員会は、民衆に発砲した憲兵補助員3名を「親日反民族行為者」だと決定します。
日本に国権を奪われなかったら、これら3人が「親日反民族行為者」という汚名を残さなかったはすです。
彼らが合祀されている靖国神社に、この裁判の原告らの両親や兄弟も同じ靖国神社に合祀されています。
1937年、日本は中国を侵略した後、戦争が拡大すると、兵力が不足したため、韓国人を軍人や軍属として動員しようします。
しかし、義兵戦争の記憶が強烈に残っていたし、中国では韓国の独立軍が活動していたので、韓国人に銃を与えることを躊躇しました。
韓国人を戦争に動員するためには、韓国人が日本の兵士となり、戦争で命を捧げるのは光栄であり、名誉だという意識を
植え付けなければならなかったのです。
そのために動員されたのが靖国神社でした。朝鮮総督府は、新聞などを通して韓国人も戦争に出て、戦死すれば日本人と同様に
靖国神社に合祀される光栄を享受できると煽りました。教科書を通じても「日本人として生まれ、靖国神社に祀られるのは
これ以上ない名誉なこと」だと教え込みました。
3点目です。靖国神社は日本の韓国侵略や植民地支配を正当化、美化する施設です。
1995年8月15日、村山富市総理は、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」という談話を発表しました。
日本政府は、村山談話以降も、侵略と植民地支配に対して謝罪と反省を表明してきました。
ところが、日本がこのような過ちを犯した際に、その過ちを精神的に支えたのが靖国神社でした。
靖国神社は、今も依然として日本の侵略戦争と植民地支配を日本の独立を守るためだったと主張しています。
靖国神社に合祀された者は、誤った国策の被害者ではなく、日本の独立を守るために犠牲になったのであり、
それは後世に知らせなければならない業績であるというのが靖国神社の主張です。この論理によれば、
韓国を侵略する過程で義兵に殺された者も、強制的に動員されて犠牲になった韓国人も日本のために命を捧げた尊い犠牲となるのです。
4点目です。韓国人の靖国神社合祀を靖国神社と共同で謀り、個人の資料を提供した日本政府の責任の問題です。
1993年日本政府が韓国政府に移管した資料を見ると、日本の軍事や軍属として動員された韓国人は、243、992人であり、
死亡、行方不明者は22、182人です。靖国神社に合祀された韓国人は、日本国立国会図書館入法調査局が発刊した
『靖国神社問題資料集』(1976年)によると20,636人、東京新聞1995年8月26日の報道によると21,181人です。
軍人や軍属として動員され死亡した韓国人の大部分が靖国神社に合祀されていることが分かります。
1945年の解放以前、韓国人の国籍は日本でした。しかし、解放とともに韓国人は国籍を回復しました。日本が敗戦し、
靖国神社を管理した陸軍省と海軍省は解体され、靖国神社は宗教法人になります。
しかし、日本政府は、陸軍省と海軍省の業務を引き継いだ厚生の関係者を靖国神社合祀の対象を議論する会議に出席させ、
韓国人合祀問題を議論しました。そして、靖国神社の合祀は厚生省が提供した資料に基づいて行われまいた。
厚生省が靖国神社に提供した韓国人の資料は、20,727人分です。
日本政府は合祀者の選定は、あくまで靖国神社が独自に決定するものだと主張しますが、靖国神社は日本政府の主張とは異なり、
合祀者の選定は「厚生省が、戦争によ る「公務死」として認定することによって、神社が合祀するようになったのである。
(中略)
戦争による公務死に該当するのかしないのかは、靖国神社当局が好き勝手に判断できる問題ではないので、
国家の決定に従うのは当然の手続」だと言ってます。また、韓国人合祀の経緯については、
「かつて同胞として共に戦地に赴き、戦没された方々への慰霊と敬慕の思いから、 旧厚生省引揚援護局に協力を求め、
その回答資料に基づき合祀」したと説明してます。
日本政府は、協力無に、韓国人の靖国神社合祀はあり得なかったというの明白です。
日本政府は、1952年4月19日、法務府民事局長の「平和条約の発効に伴う朝鮮人・台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」
という通達をもとに、日本に居住する韓国人の日本国籍を一括して「剥奪」しました。日本政府は、日本国籍を持っていない
韓国人戦死者の個人資料を靖国神社に提供したのです。しかし、日本政府は韓国の遺族たちには靖国神社合祀の事実はもちろん、
戦死通報すらしませんでした。
日本政府は、遺族の同意なしに韓国人戦争被害者の身上資料を靖国神社に提供した結果、遺族の意思に反して同神社に合祀された事実に対して、責任を認めるべきです。
靖国神社に合祀された韓国人の問題は、同神社が霊璽簿から原告親や兄弟の名前を削除し、これ以上は神として祀らないと宣言すると、
解決できます。しかし、靖国神社は宗教法人の外皮を被り、宗教的教義を掲げてそれを拒否しています。
日本の裁判所は「宗教的な寛容」を掲げて訴訟を棄却しました。
以上で、お説明したように、原告である韓国人の遺族の立場から見れば、靖国神社の韓国人合祀の問題は、
日本の韓国侵略と植民地支配に対する歴史認識を問う問題であり、原告の名誉に関する問題です。
日本の韓国侵略と植民地支配を美化する靖国神社に親や兄弟が合祀されたことは、残された子として、
耐えられる限度を遥かに越えた屈辱だと思います。
以上です。
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